きみは美しかった-2

文字数 1,153文字

「お前も他人(ヒト)のことは言えんだろう」

 デスクに広げていた国外の医学書を閉じ、ヌエの奈落はシギの虚ろを観察するように見つめ、静かに眇められる。

 その虚ろが目の前の全てを拒絶し、何も映して来なかった過去を、ヌエは知り尽くしていた。今にも折れてしまいそうだった四肢をぶら下げ、この世で呼吸をしているのは、生きていたいという人間らしい意志ではなく、死んではならないという原始的な本能のみだった頃を。

 今だって、風の噂で聞くシギの姿には人らしい情けも容赦もなかったし、他者を意のままに操ることにかけて並ぶ者はいない。ヌエに少しでもその片鱗があったなら、人体実験は失敗することもなかっただろうに、シギと違ってヌエは、血の通う生物(ナマモノ)を理解できないのだ。

「手懐けた飼い犬には随分甘いと聞いたが」

 鉄面皮だったシギの表情が、俄かに不快で曇る。こういうところが実にわかりやすくて好ましいと、ヌエは昔から思っている。

「あれが愛玩犬(イヌ)ならとっくに捨ててる、半端に獰猛な闘犬(バカ)だから持て余している」

 シギの理屈は否定も肯定もしなかった。それがシギの本意であろうとなかろうと、虚ろな双眸が僅かに力を取り戻すことについて、本人の自覚はないからだ。穏やかな潮汐力にさえ身を任せて揺蕩っていただろう、あの頃のシギがもういないことについては、一抹ばかり寂しいと思う。思うが、それがシギへの粘つく執着かと問われたら、今ははっきり、否と言える。

 木偶でなくなってしまったら、用済みだ。これはもう、元には戻らない。

「人間に

するのが上手くなったな」

 デスクに両肘をついて手を組み、ヌエが言った。

「お前は下手なままで安心する」

 溜息と共に吐き出したシギが本題に入るから、ヌエはそれ以上、シギのことについては口を噤んだ。

 ヌエは当たり前に人間の父と人間の母から産まれ、実父に実母を殺されて、情操教育には宜しくないとされることを教え込まれてきたが、そこには何の感慨も抱かない。ヌエを為した母は父にとって用済みだったので、

であると理解していたし、その事実はヌエに何の影響も及ぼさなかった。悪魔的な男に悪魔的な英才教育を受けたことは自負することなく自覚しているし、ヌエは先天的な

であったため、後天的で

である従兄に嫡子の座を奪われたことでさえ、頓着しなかった。むしろ、仄暗い悦びに集中できると感謝すらした。

 深夜、日課として地階へ降りたヌエは、目的の袋を開けて、いつもと変わらぬ寝顔を撫でた。冷たく硬い皮膚の感触はセルロイドか蝋人形のようで、温もりに程遠く、安心する。合成樹脂の皮膜で腐敗と無縁になった完全体、生身に於いては性的不能者であるヌエの倒錯した理想の全て。

 蠱惑的に自ら設計した唇へと薄い唇で触れ、ヌエは僅かに感嘆を漏らす。
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