背徳の蜜

文字数 1,078文字

「あ、」

 往来の中、何かに気づいた声が聞きなれている気がして、フユトは振り向いた。

 夜の入り口、水商売関係者と利用客が行き来する繁華街の片隅だった。声の主を探して視線を巡らせると、横から伸ばされた気配を察して、

「こんばんは、フユトさん」

 反射的に構えた体の力が抜ける。屈託なく笑う子犬バーテンが、フユトの傍で笑っていた。

 シギが国外に出て、間もなく二ヶ月近くになる。相変わらず向こうからの連絡は疎かだし、来たかと思えば仕事の話で終始するし、時差もあるから通話はほとんど出来ず──要するに憂さが溜まっていた。仕方ないから久しぶりに繁華街で相手を探すかと出てきたので、嫌なところで会ってしまった、というのがフユトの感想だったが、アゲハはフユトの内心など知る由もなく、

「珍しいですね、この辺りで見かけたことないのに」

 素直な感想でジャブを放つ。もちろん、アゲハにそんな意図はない。

「まぁ、野暮用で……。お前は店、開けなくていいのか?」

 動揺した内心を悟られまいとごまかしつつ、フユトは話を逸らす。

 繁華街が賑わい始める時間帯は、アゲハがバーテンを勤める店もオープンのはずだった。規則正しく仕事をこなし、シギから一任されるほどには勤務に真面目な子犬が、堂々とサボっているのも珍しい。

「今日はお休みにしたんです、たまにはみんな、ゆっくりして欲しいから」

 アゲハは少し切なそうに顔を伏せ、

「一日休んだだけで生きていけなくなるような、そんな働かせ方はしてないし、休んでも心配ない、大丈夫なんだって思ってもらいたくて」

 店で雇う娼婦や男娼たちを案じながら、心細げに笑った。

 今でこそアゲハは現場に出ないが、元はシギ子飼いの男娼だった。であればこそ、体を売る立場の気持ちがわかるので、こういった気遣いは抜かりない。

「せっかくだから、一緒に飲みませんか?」

 フユトが感心していると、アゲハは人懐こく笑って誘う。

 ここ何年か、情婦(オンナ)を買うことから遠ざかっていたため、憂さが晴らせるか怪しくはあったのだ。アゲハに意図があろうとなかろうと、暇つぶしには最善の選択かも知れない。と思い直して、

「……せっかくだから、な」

 答えると、アゲハは上機嫌に、フユトの腕に自らの腕を絡めてきた。

 なるほど、売れっ子でありながら引退しただけあって、アゲハを連れているだけで周囲から視線を浴びる。繁華街は男同士だからとか、女同士だからとかでとやかく言われはしないので、これは好奇の視線ではなく、ある種の羨望だ。子犬のような顔をして、子猫のように気まぐれで、くるくると多彩に変わる表情に目が離せなくなる。


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