汝、隣人を愛せよ-2

文字数 1,045文字

 そもそも、この人が男性であるのか女性であるのか、アゲハは知らないのだ。小柄で胸が膨らんでいることと名前からして女性のようではあるが、セクシーなハスキーボイスや骨格は男性のようでもある。

 ボタンはアゲハより大人しい性格らしく、問われたことにぽつぽつと返すのみだった。アゲハに付き合わされているのではないようだったが、顔見知り以上の関係になりたいかどうかまでは読めない。ただ、お互いが何となく、似た匂いを直感しているのは間違いがなかった。

「じゃあ、その名前って……」

 話の種に、アゲハが自身の名前の来歴について語ると、その人も似たようなものだと言った。

「──本当の名前は覚えてなくて。背中に彫った刺青が牡丹と蝶だったから」

 からん、と、グラスの中で氷が揺れた。

 アゲハも実は本名ではない。本当の名前は別にあるが、そちらを名乗る必要や予定は今後一切ないので、【蛇】からもらった通名を大事にしている。

「綺麗な名前でボクは好きですよ」

 アゲハはにこやかに答えた。ボタンもこくりと頷いて、

「僕も、ドクターからもらった名前、嫌いじゃないです」

 無表情に言ったが、その声や眼差しは優しかった。

 きっとこの人には、感情を顔に出せない理由があるのだろうと、アゲハは多くを聞かない。

「ボクはもともと、父が訪問医だったので、家は裕福なほうだったんです。学校に通わせてもらったし、生活に不満はなかったし。そのままだったら、たぶん、父の跡を継いでいたと思います。でも、オーナーに出逢ったから、今はここで働かせてもらってますけど」

 どんな話の流れでか、アゲハは自分の生い立ちを、初めて他人に話した。貧困も飢えも、命の危険もない環境で五体満足に育ったこと。両親と弟妹がいること。学校のクラスメイトに誘われてスラムを訪れた際、偶然、路地裏で殺人を見てしまったこと。その殺人を犯したのが、他ならぬ【蛇】であったこと。一目惚れしてしまったこと。彼を探してスラムに堕ちたこと。そのほとんどを。

「ボクは永遠に叶わない片思いをしてるんです、でも、それでいいと思ってる」

 想い人が幸せになってくれるなら、アゲハに不満は微塵もない。それは心からそう思っている。だって、アゲハは想い人の視界の片隅にもいないのだ。存在していても、いないことにされてしまう。最初から相手にされていないし、関心など持たれるはずもない。人を殺した瞬間の【蛇】を美しいと思い、アゲハが勝手に近づいただけなのだ。

「……僕も、それ、わかります」

 今度はボタンが言った。

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