崩壊する箱庭で

文字数 1,119文字

「──こわかったんだ、ずっと」

 その肩に額を預け、フユトは言った。ハウンドになって──否、もしかしたら生まれて初めて、こんなに弱気な声を出したかも知れない。

「ひとりも、置いてかれるのも、こわかった……」

 耳元で、ふっ、と笑う声がする。嘲るものではない。呆れ果てた嘆息に、年端もいかぬ子どもを宥めているような様子が入り交じった、深く、優しい声。

「識ってるよ」

 後ろ頭を撫でる片手が、繊細な手つきで髪を梳りながら、

「昔から識ってる」

 甘やかす声が鼓膜を撫でる。

 何か大切なものを永遠に失った同士だからこそわかる、けだし、抱える傷の色や形はそれぞれ違うもの同士だからこそ分かり合えない、舐め合って癒すことも、睦み合ってごまかすこともできない、強烈で鮮烈な、消えることのない痛み。

「お前が望もうと、手放すつもりはない」

 後ろ頭を撫でていた手が背中をさすり、

だから、安心しろ」

 彼自身が幼い子どもに掛けられた

を、そのまま返した。

 話は少し前に遡る。

 少し深酒をしたのは確かだが、フユトが行きつけのバーの子犬を誘い、シギの持ち物だと知りながらシティホテルに連れ込み、浮気未遂の現場を押さえられた、あの一件。

 どうしてあんな行動に出たのか、フユトは未だに、その時の詳細な動機を思い出せない。ただ、あれだけ甘やかして蜜の坩堝の底に沈めておきながら、期待させておきながら、結局は仕事を取ったのが許せなかったのかも知れないし、また別のことが気に入らなかったのかも知れない。

「お前の答えはわかった」

 毒づくフユトにシギはそう告げて、蒼白になっているアゲハを、とりあえずその場から離した。その、さり気ない行動すら気に障るほど、フユトの感情は荒れ狂ったままだ。

「……そいつは庇うんだな」

 フユトはぼそっと吐き捨てて、

「結局、お前は俺なんてどうだっていいんだろうが!」

 頭に血が昇ったまま怒鳴った。

 フユトがいくら激昂しようと、シギの表情は変わらない。それも全ておもしろくない。

「子どもか、お前は」

 呆れを通り越した声に言われて、フユトは衝動に任せるまま、シギに掴みかかる。

「俺だって駒に過ぎないんだろ、そうやって期待させといて、簡単に見捨てて、」

 掴みかかる寸前で手首を取られ、呆気なく背後で腕を捻じ上げられた。容赦ない力加減に、骨が軋む。さすがのフユトも、それ以上は抗うのをやめた。

 アゲハを帰したあと、二人に訪れたのは重い沈黙だった。シギからは何も言わないし、フユトも聞かれないから黙っている。何より、先程よりはフユトの気持ちも落ち着き始め、また軽はずみなことをしてしまったと、何をどうしたところで取り繕いにしかならないと、考えあぐねている。
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