憐れな羊飼いは希う-3

文字数 1,138文字

「大丈夫か、お前」

 茫洋としていた視界が、落ち着いた声によって急速に輪郭を取り戻す。はっとしてアゲハが振り向くと、真顔のフユトがこちらを見ていた。

「えぇ、だいじょうぶ……」

「そんな顔色でよく言うよ」

 言い差すアゲハの言葉に被せて、フユトは大きく嘆息し、

「気は合いそうだったもんな」

 珍しくロックアイスが沈むグラスの琥珀色を揺らす。

 闇医者のところの看護師が

。それをアゲハが聞いたのは、もう一週間ばかり前になる。以来、なかなか眠れず、仕事中も漫ろになってしまっていた。それでも、何もせずに閉じこもるよりはいいのかも知れない。自分まで壊れてしまいそうな気がして、アゲハはなかなか休めずにいる。

 フユトの慰めに目を伏せて、

「……たぶん、きっと、ボクのせいなんです」

 独白するアゲハを、フユトは無言で見つめる。

「きっかけがきっかけだったから、初めて会ったときは何も思わなかったけど、二度目に会った時は友達になりたいと思ったから……」

 アゲハは頼りなさげな面持ちを、更に頼りなくさせて、

「そんなことしなければ、こうならなかったかも知れないのに」

 グラスを磨く布巾を強く握り締めるから、

「お前が何をしなくても、アレに飼われてれば遅かれ早かれ、こうなっただろうよ」

 フユトはアゲハに告げた。

 ヌエはシギの従兄だというが、アゲハが医者と会ったのは一度きりだ。白い髪と白い肌、そこだけが奈落のように深く昏い瞳、体裁のために貼り付けられた表情。断片的な印象しかないが、その存在感は確かに不気味だった。不気味ではあっても、気づけばいつの間にか惹かれてしまって後戻りができないような、危うい空気を纏っている。

「アレが子飼いを

のは、これで三度目なんだと」

 沈鬱なアゲハに、フユトが淡々と言った。

「あの化け物に目を付けられたら最後だから、俺も関わるなって言われた」

 シギの件でフユトが荒んでいた数ヶ月前を、アゲハもまだ覚えている。そのときに従兄のシギが警告するのだから、闇医者がどれだけの人格破綻者なのかは聞かずとも想像がつく。他者を利用するのに手段を選ばず躊躇しないシギも、それはそれでなかなかのサイコパスではあるのだが。

「どうしようもなかったんだよ」

 宥めてくれるフユトの声は、染みるくらい優しくて、アゲハは両手で顔を覆う。店の前で立ち尽くしていた寂しげな背中を思い出すと、嗚咽が止まらない。

「本当は、」

 アゲハが呟く。声は涙で濡れている。

「本当は、助けて欲しかったんじゃないかって、溺れる前に引き止めて欲しかったんじゃないかって、」

 しゃくり上げながら、何とか言葉を紡ぐたび、胸の奥が焼け爛れていく。

「自分から手を離すのは怖いから、強引に引っ張って欲しかったんじゃないかって、思って──」
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