ラグナロク

文字数 1,095文字

 選ばなかった選択肢の数だけ、宇宙が無限に広がっていくのだとしたら、その向こうで彼は、どんな表情(かお)をして生きているだろう。幸せそうに笑っていたらいい。どの選択をしても、彼だけは幸福に包まれていて欲しい。

 それだけが、十二歳のフユトの、唯一の願いで望みだった。選べなかった未来の数だけ彼が幸せになるぶん、選んでしまった今が不幸なのではないかと、フユトは思う。その不幸を押し付けた弟に全てのしっぺ返しが来るのは甘んじて受けるとしても。そうだとしても、だ。

 昨夜、穏やかそうな四十代の男に買われ、連れ立っていった兄が、顔の半分を腫らして戻ってきた現実を、フユトは受け止められなかった。

「な……んで、」

 金持ちで物好きな男や女を相手に体を売るのは、子どもがたった二人きりで生きていくために必要な手段だった。それは仕方がない。けれども、ストリートで生きるのは過酷だから、せめて買われた一晩だけでも幸せであって欲しいと、願って待つフユトに突きつけられたのは、絶望なんて優しい感情ではなかった。

「そんな顔しないで、フユト」

 兄を出迎えに来たまま立ち尽くす弟の体を、シュントが優しく抱きしめる。

「俺は大丈夫、見た目より痛くないし、それにお金も……」

 兄がいそいそと取り出した高額の紙幣を、フユトは咄嗟に叩き落とした。本当はビリビリに破り捨てて使いものにならなくしてしまいたかったけれど、そうしたらシュントが味わった恐怖や我慢はどうなるのだと、手が止まる。

「──平気だよ。初めての人だったし、もう会わないって決めたから」

 宥めるようにフユトの肩を抱いて、兄が言った。フユトはぼろぼろと涙を零しながら、兄の言葉に頷いた。

 それから二週間が経ち、フユトから見えない位置で客を取ったシュントは、またにこやかに出ていった。顔の腫れが引くまで路上には立たなかったから、久しぶりのことだった。ご機嫌で出ていったところを見ると、常連の良客だったのだろう。

 新規の客を引くより、素性はわからなくても危険行為をしない客だとわかっていた方が、待つ側の心理的負担は軽い。

 だからフユトは信じていた。きっと大丈夫だと思って、夢うつつを浅く漂いながら、遠い夜明けを待っていた。

 息を呑んだ。

 薄曇りの早朝、朝靄がかかる廃墟群に戻ってきた、シュントのその有り様に。切れて出血が固まった口角と腫れた頬、開けることも出来ない片目と、首筋に青く浮かぶ縄状の痣。言葉と顔色を失うフユトを見つけ、それでも、ヘラっと明るく笑うシュントは、

「ただい、」

 加減なく左手を掴まれて引っ張られるまま、押し黙るフユトの横顔に憎悪を超えた激情を見て、口を噤んだ。
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