憐れな羊飼いは希う-2

文字数 1,068文字

 助けて欲しいと願っても、誰も助けてくれない。そんな風にいじけていた頃もあった。でも違った。ボタンは本当のところ、救いなんて必要としていなかった。拠り所を失った先にあるものが、今以上の幸福かどうかなんてわからないから、不安になって逃げ出しているだけ。頭ではそうわかっているのに、縋る手を掴んでくれない誰かに、憤って嘆いている。

「──ボタン、さん?」

 立ち尽くすボタンは、名を呼ばれてゆるゆると振り向く。日用品が詰め込まれた紙袋を抱え、驚いたような、けれど嬉しそうな、そんな顔のバーテンと目が合う。懐かしそうに、眩しそうに笑う、彼の顔が曇った。途端、自分が悲劇に見舞われたような、悲痛な顔と声で歩み寄り、

「泣かないで……」

 ほっそりした指で、ボタンの頬を撫でた。

 言われて初めて、ボタンはその頬を濡らす雫の存在に気づく。何が悲しいとか、どこかが痛いとか、胸が苦しいとか、そういう自覚はなかったけれど、優しい指の軌跡から、感覚が広がっていく。

 つらかった、こわかった、消えてしまいそうで。酷く揺らいでいた。雇い主のことは尊敬しているし、敬愛しているけれども、傍にいればいるほど、自分が歪んでいく。輪郭が融けて曖昧になってしまう。そこにあるのは何だろう。無、としか形容できない闇だろうか。迷いや恐れなどない光だろうか。

「中に入って、」

 促すアゲハに首を振る。ボタンは決めた。とても綺麗な顔は笑顔を作れなくても、最上の笑みを浮かべ、声の出ない口唇で、ありがとうと告げた。

 アゲハと別れてから、どこをどう通って、医院に戻ったか、ボタンは覚えていない。躊躇いのない足取りで第二処置室へ向かってから、診察棟一階の奥にある階段を使って地階へ降りる。平常であれば、この先は霊安室があるので、ボタンは気味悪がって近づかない。霊安室とは名ばかりの、雇い主の趣味である解剖に使われる遺体や、解剖後の臓器が並ぶ場所で、死後の安息も死者への弔いもないからだ。

 だからこそ、お似合いだった。

 冷えきった室内に並ぶ遺体袋を見渡して、ボタンは少し、ほっとする。背伸びしても決して並べない人と共にいることにこだわったけれど、きっと最初から、ベストな答えは用意されていた。これでもう、迷わなくて済む。この気持ちが溶けて消えてしまう前に、ボタンがボタンでなくなる前に、友達になりたかった人の顔を覚えているうちに、終わらせてしまえばいい。

 処置室から持ち出したメスを右手に、左手首へ力の限り押し付ける。神経や腱に届くよう、深く、出来るだけ深く押し付けて、そのまま力の限り引いた。

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