闇のはじまり-4

文字数 1,147文字

 その日は朝から天気が悪く、厚い雲が垂れ込め、今にも降り出しそうな様子で、速い風に流されていた。昼にはぽつぽつと降り出し、夕方には本降りになり、夜には強風と雷を伴った嵐になった。視界はすこぶる悪かったが、現場は室内なので、濡れて凍えることはない。むしろ、強風で窓が揺れ、轟く雷鳴で物音が掻き消されるので、仕事をするには好都合だった。

 対象者は三階建ての集合住宅の二階に住み、子供を寝かしつけたあとに家事をこなし、自分の時間を作ると把握していたので、大凡の時間の見当をつけて、隣の空き部屋に侵入してベランダから移動し、面したリビングダイニングをカーテンの隙間から伺う。

 室内に人の気配はなく、真っ暗だった。子供を寝かしつけているのだろう。工具で窓を割って素早く鍵を開け、中へと入る。カーテンが強風で膨らみ、身を隠すのに丁度いい。

 それから十分ほど経っただろうか。雷鳴に紛れて、廊下を歩くスリッパの音が近づいてくる。間もなく対象者がリビングダイニングのドアを開け、明かりを点けようとして、竦んだ。風で膨らんだカーテンの内側、稲光に照らされた人影を見て、目を見張る。咄嗟に上げかけた悲鳴を、自らの手で口を塞いで殺し、恐怖ごと飲み込むと、

「……そういうことなのね」

 観念したように、寂しそうに、哀しそうに微笑った。以前に見た写真の、あの笑顔だった。

 開けたままのドアをそっと閉めると、

「私はどうなってもいいの、でもお願い、どうかあの子たちは見逃して、まだ十歳にもなってないのよ、お願いだから逃がしてあげて」

 対象者が口にしたのは自らの命乞いではなく、哀願だった。そっと歩み寄ってくる。侵入者の目の前で両膝を折り、両手を突くと頭を下げて、

「……お願い……」

 絞り出すように言った。

 喉の奥が異様にかさついた。吐く息が震えていた。

「──……おかあさん、」

 掠れた声で呟くと、彼女は震えたまま顔を上げた。侵入者をそっと見上げる。笑顔だとふっくりする頬を、涙の跡が濡らしていた。稲光に照らされた侵入者を見て、またふと、今度は心からの笑みを浮かべて、

「おいで」

 言って、両腕を拡げた。誘われるようにふらふらと近づくと、彼女はそっと、その体を抱きしめる。初めての感触に包まれて、けれど、何かの感慨が浮かぶことはなかった。ただ、あたたかいな、と、それだけを思う。思いながら、その柔らかな左胸に、手にしていた牛刀を深く沈めた。事前に確認した手順とは違う。解体屋の仕事で対象者を先に殺すことはタブーだ。それでも、彼女にはそうしたいと思った。柔らかで眩しい笑顔を焼き付けたまま、綺麗なままで逝って欲しかった。

「……おねがい、あのこを、」

 苦鳴を堪え、熱く、鋭利な痛みに体を震わせながら、彼女は侵入者を抱きしめたまま囁いて、
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