芽生え前夜-2

文字数 1,405文字

 誰かから連絡を受けたシギが程なく通話を切り、どこかへ連絡しながらスツールを降りて出ていくのを見送って、子犬バーテンのアゲハは嫌な予感がした。普段から能面に等しいシギの顔が、より色を失って、虚ろになる瞬間を見た気がした。

 いつだったか、シギが商売女から、人でなしと罵倒されているところを見かけたことがある。春を鬻いで生業にしている彼女が、客の男に本気で惚れることなどあるのかと思ったが、理不尽に喚く女の唇に小口径の拳銃を突っ込み、失禁させて座り込ませているのを見て、なるほど、その言い分も強ち間違いではないと、同情したものである。

 そのシギが、バーの馴染み客でもあるフユトと連れ立つようになり、何気ないやり取りから、そういうことかと察したときは、心の底から嬉しかった。アゲハにとってフユトの存在は恋敵であるにも関わらず。

 あのフユトに、何かがあったのだろうか。先程までカウンターにいた想い人の様子は、言葉にするまでもなく、そう物語っていた。当事者同士はまるで意識していなくとも、アゲハが見てとるぶんには、かなり睦まじい二人だったからだ。中途半端な間柄なら嫉妬も出来ただろうに、入り込む余地が全くないのではどうしようもないのだし、何より二人なら、きっと何もかも上手くいく気がした。

 閉店作業を片付け、その日の帳簿を記録し、明け方には報告の電信を送る。さて、これから昼まで少し寝て、開店前に買い出ししなくてはと思いながら身支度を整えていると、アゲハの端末が着信を告げる。

「──……え?」

 その言葉の意味を受け入れられず、アゲハはしばし、呆然とした。

「それは構わないですけど、でも、」

 通話の向こうで広がる重苦しい沈黙に我へ返り、慌てて告げるものの、返事はない。

「……でも、オーナー、大丈夫ですか?」

 聞いてから、しまったと思った。そういうことを問われるのを、この人は一番嫌うのに、何てことをしてしまったんだろうと内心あたふたしていると、普段の何倍も重みを増した声が答える。

「──わかりました」

 誠実に答えて、アゲハは言われた通り、闇医者が院を構える廃墟へと向かう。夜明けの眩しい光の中でも、その廃墟の中は暗いままで、大戦中のゾンビでも潜んでいそうな雰囲気だ。さすがにそんな非現実的なことは起きないが、ひやりとした空気の中を目的の場所に辿り着くまで、気分が落ち着かない。

 戦時中に病院として機能していた廃墟の二階、戦禍で焼き尽くされて煤けたコンクリートの通路から、病棟に出る。診察棟と病棟を繋ぐ渡り廊下に近い、手前の病室が目的の場所だった。大きく深呼吸してから扉をノックし、そっと引き戸を開けて、

「……っ、」

 アゲハは思わず息を飲み、立ち尽くした。白いカーテンを朝日が照らす、仄明るい病室でこちらに背を向ける人影に、叫んでしまうところだった。

「オーナー……」

 その背中を見知っていても、動悸が収まらない。青黒い髪に黒づくめの服、剥き出しの両腕に彫り込まれた精緻な大蛇。そしてその男が纏う、果てのない殺気。

 ゆらりと揺れるように、シギがアゲハを振り向く。鉄仮面の如く表情はなかったが、その瞳は普段より更に虚ろだ。万物を飲み込んで破壊し尽くす、そんな高エネルギー体のようだった。

 アゲハはそんなシギに戦きながら、静かに病室へ入ると、白いベッドに横たわる人物が誰かを見て取って、大きな両目を潤ませる。

「……フユトさん……」
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