もののあはれ

文字数 1,143文字

 フユトが必死で首を振る。

 安いモーテルの一室、マットレスに突き立つナイフと拘束具の金具がこすれ、嫌な音がする。渾身の力で逃げ出そうとするから爪が割れ、安物のシーツに血で指の痕を残す。

 相手を蹴り飛ばそうとする下品な、しかし、この場面においては正しい反応をする両足を体重で押さえ、シギは獲物が勝手に衰弱するまで、ほとんど傍観に徹している。

「い、やだ……!」

 逃げられないとわかっているのに、足掻き続ければ叶うと信じてやまない、莫迦な男だ。

「お前も男娼くらいは買うだろう」

 勝手に息を荒らげ、勝手にへばっていく獲物の背中へ覆い被さるようにして、耳元に口を寄せ、囁く。

「兄と寝るのと同じ感覚で」

 咄嗟に宙を薙いでこめかみを狙う、フユトの足を難なく捕まえ、再び自重で抑え込む。

「お、まえに何が……ッ」

 息切れしながらフユトは肩越しにシギを睨め付け、

「放せ!」

 革作りの拘束具で手首を赤くしながら、それでもまだ藻掻く。

「兄に出来て、弟には出来ない理由でもあるのか」

 シギの淡々とした口調に、フユトの険しい顔が背けられた。

「素質のあるなしなぞ関係ない、お前は逃げた、そうだろう」

 荒い呼吸だけが繰り返される。表情を読まれまいと顔を背けて伏せ、シギを拒み続ける。

「なに、覚えるまで何度でも教え込んでやる」

 シギが獰猛に言った。抵抗すら阻まれた哀れな獲物へ、【蛇】が毒牙を剥くように。

「お前が

は何者か」

 かつての二人の夜は、戦場だった。フユトは体力が続く限り、シギに抵抗し尽くしたし、シギはシギでフユトの疲労を待って、フユトが覚え込むまで、あらゆる性感を教え続けた。屈辱に塗れた服従を余儀なくされたフユトは本当に哀れなほど嘆いたし、永続的で絶対的な隷属を誓わせたシギは、その(かいな)の檻で未だにフユトを飼い続けている。

 戦争が冷戦になり、やがてゲリラ的な宣戦布告になり、けれど和平条約は結ばれぬまま、二人の夜は変遷し、今がある。かつてのように、そこに服従や隷属はいらない。互いの息の根を止められるのはこの世界に二人きり、そんな暗黙の了解と、誓い。

 心地よい微睡みから目覚め、フユトは思わず傍らの存在を探しそうになり、背後の気配に安堵して目を瞑る。予定を空けておけと言っただけあって、シギは決定的な絶頂を与えてくれないまま、じゃれ合っては微睡み、微睡んではじゃれ合う時間を繰り返す。たった一日、仕事を調整するために使ったあとは、互いにずっと、この最上階から出ていない。

 いつになく、シギは熟睡している様子だった。

 項に掛かる規則的な寝息がくすぐったくて、フユトはシギに体を向けた。そんなフユトの寝返りにも反応せず、眠り続けるシギの寝顔を、フユトは初めてまじまじと見た。いつも見られているお返しとして。
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