Abyss-2

文字数 1,245文字

 医者はやはり、愉しそうに宣告するのだ。

 ヌエ曰く、生きながらにして死んでいるシギにとっては、相手を確実に仕留めることに重きがあるから、自らの腕が切断されることも厭わない。そして、利き腕や利き足がなくなっても困らない程度にバランス良く鍛えているので、利き腕や利き足に固執する弱者の考えはわからないし、それを失うと機動力が落ちることさえ理解できない。

「そもそも、お前以外の生き物には痛覚という、命に直結した防衛本能があってだな、」

 ヌエは宣う。

「立ち眩みしなければ出血にも気づかないようなお前と違って、自分の何かを犠牲に生きることは出来ない」

 シギは答えないまま、看護師が器用に巻き終わった包帯を撫で、椅子から立ち上がると上着を羽織る。

「……莫迦莫迦しい」

 端的に吐き捨てたシギは、

「俺が何を捨てたところで何も変わらない、そうだろう」

 その命すら不要なもののようにヌエを睨み、処置室を出ていく。

 ぴしゃりと閉められた扉を見つめる医師に、看護師は何か言いたげな視線を向けて、

「──ああして強がっているだけだよ、心配ない」

 扉を見つめたままのヌエが諭すように答える。

「何も要らないと本気で思うなら、あれはとっくに生きていないさ」

 抜け殻で、糸が切れた操り人形のようだった、シギの幼少期を思い出す。奪われるものは全て奪われ尽くし、希望も絶望も持てず、ただ息をしているだけだった子どもの姿を。

「渇望を持つなんて愚かなことだよ、あれに似合うのは空虚なのに」

 ヌエが物騒に呟くのを聞きながら、看護師はただ俯いた。

 シギが居室に戻ったのは未明のことだった。片付けられる雑務を全て終わらせ、急を要するもの以外、連絡して来るなと各方面の部下に伝え、ようやく肩の荷が下りたはずなのに。

 脱いだ上着を雑に投げ捨て、壁に八つ当たりしてから椅子へと座る。フユトが不在で良かったと思う余裕すら、今のシギにはない。

 あの藪医者にだけは全て見透かされているのだと思うと、普段は凪いでいる水面が時化で荒れ狂うのだ。

 深く呼吸して、とにかく落ち着くことにした。苛立つ指先で端末を操作して、フユトの名前を表記させ、通話しようとしたところで手を止める。少しだけ逡巡し、夜に没した街の光景を見やって、端末の表示を消した。

 何かをする気分でも、何かを考える気分でもない。

 革張りの椅子に背中を預けて凭れ、天井を仰ぐ。明かりをつけずにいる室内は、外のネオンサインを光源として、ぼんやりと明るい。明滅する光を眺めながら、シギは溜息をつく。そうして背凭れから体を起こすと、今度は明確な意志を持って端末を操作し、通話することを選ぶのだ。

 六回のコール音のあと、掠れた声が応答する。寝起きの声を聞いた途端、何を言おうか考えていなかったことに気づき、無言になってしまう。

 通話中の向こうも僅かに沈黙して、そのうち、衣擦れの音がした。

「──戻ったなら戻ったって言えばいいだろ」

 通話が一方的に切られてから三十分もしないうちに、軽装のフユトが顔を出す。
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