閑話21「SDG’sぢゃて?」その8

文字数 1,178文字

【閑話21】

 はいはい、では今回は、平安の“公衆便地”の続きですのぢゃ。

 この『餓鬼草紙』『食糞(じきふん)餓鬼の巻』の背景となっておる空き地ぢゃが、随分荒れ果てておるのう。
 後ろの築地塀(ついじべい)は、土壁(つちかべ)が剥がれ木枠がむき出しになって、屋根の瓦が一枚も無くなっておる。
 それに比べると、右端の網代塀(あじろべい)には破損が見当たらんし、塀の内側に屋敷の廊下も見えるので、ここは誰ぞの屋敷で人が住んでおるのかもしれんのう。
 おそらくは、屋敷の裏口なのぢゃろうが、たとえ裏口でもその空き地がこんな状態になっていたら……、その芬々(ふんぷん)たる臭気によって、毎日が地獄の沙汰ぢゃろうのう……。

 この場所が京の都のどこにあるのか、それはもはや分かるはずもないがの、やはり当時は実際にそのような空き地が、京の都に点在しておったらしいわい。

 ちなみに、今では京都の台所と云われる“錦市場”のある“錦小路”はな、かつて“糞小路”と呼ばれていたそうなのぢゃ。
 しかし、それは“糞”とは関係なく、元々は具足を商いする店が多く“具足小路”と呼ばれておって、それが訛って“糞小路”になったと伝えられておるそうなのぢゃ。
 ぢゃがな、『宇治拾遺物語』の『清徳聖(せいとくひじり)奇特(きどく)の事』には、“糞小路”の別な由来が書かれておるのぢゃよ。

 ―― 愛宕山で、三年間飲まず食わずで母の菩提を弔っていた清徳聖と云う僧が、母の成仏を知って山を下り、京の都に向かう途中で三年分の腹が減った挙句、道端に生えておる水菜を三町分も喰ろうたり、それを見て哀れに思った奇特な人からご馳走されて米を一人で一石も喰ろうたり、その噂を聞きつけた藤原の大臣の屋敷では米を一人で十石も喰ろうてしもうた。

 実はこの清徳聖の後には、餓鬼・畜生・虎・狼・犬・数万の鳥獣などの魑魅魍魎がそれこそ無数に付き従っておって、常人にはその姿が見えなかったが、徳の高い藤原の大臣にはそれが見えたのだった。
 そして、清徳聖は藤原の大臣の屋敷を出てから、四条の北の小路で糞を垂れた。
 まるで墨のように黒い糞を隙間もないほど延々と垂れ流したのだが、それは実は聖の後に連れている者どもが垂れ散らしたものだった。
 その後、町の下人たちも汚がって、その小路を“糞の小路”と名付けていた。

 それを時の帝がお聞きになり、「その四条の南は何と云うか」とお尋ねになったので、「綾の小路と申します」と答えると、「それでは、この小路はこれから錦の小路と云うがよい」と仰せられたので、その後からは“錦の小路”と呼ぶようになったのだそうだ。――

 ざっとこんな話ぢゃがな、やはりその“四条の北の小路”は、当時の“公衆便地”であったのではないかのう……、と儂には思われてならぬわい。
 
 と、ここで今回も、SDG'sに辿り着く前に、儂のお目々の限界リミットが来てしもうたのぢゃ。
 では、皆の衆、続きはまた次回ぢゃ!
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