第9話:京王線開通で、橋本駅前が土地バブル

文字数 1,295文字

 多摩ニュータウン開発計画にからみ、京王帝都電鉄は、当初、相模原線の橋本駅延伸に際して途中駅を一か所設置することを計画で定め、「由木平駅」の設置を決定していた。その後、多摩ニュータウン開発の進捗に伴い、マスタープランの中で複数の開発住区に対する生活サービス施設を集積した「地区センター」の配置場所と定められた中間地点に、京王堀之内駅と多摩境駅の設置も追加で決定した。

 なお、当初計画の「由木平駅」は現在の南大沢駅に当たる。なお由木平駅設置に際して現在の場所が決定した理由は、京王多摩センター駅と橋本駅との中間地点に位置する事。加えて、ニュータウン計画で一帯が新住宅市街地開発事業地に定められ周辺に人家がなく白紙で駅を中心に「地区センター」とする大胆な街づくりが可能な事だった。また、当時の相模原線計画では橋本延伸後に津久井湖方面に延伸する構想があったため、優等列車の追い抜きが可能な島式ホーム2面4線設計で用地が確保された。

京王多摩センターから橋本駅間の延伸工事のうち、当駅までの線路や駅の建設工事は比較的順調に進んでいたが、当駅と橋本駅間は用地買収などに手間がかかり全線開業が遅れることとなったため、同社はやむなく京王多摩センターから当駅間を暫定開業させた。その最大の目的は、当駅南側の新住区で既に入居が始まっていて、代替の救済措置として暫定運行していた多摩センター駅までのバス連絡を一日も早く解消するためであった。

 その後1987年1月に2000万円を茂田グループに出資し、残金が5000万円となった。そして1983年から1989年にかけて、茂田クループの買い取った土地の90%が2億4千万円が10億円で売れた。売れ残った土地を200坪のうち、100坪を茂田グループがビルを建て、100坪を出資した2千万円で甘太が買い取った。

 そして、甘太は、茂田グループから購入した100坪を1988年1月に1億円でマンション業者に売却して、寛太の総資産が15000万円となった。

 1987年に、長男の寛一は、県立相模原高校に合格し、1988年2月、長女の青山里子も猛勉強の末、県立上溝高校に合格した。1988年5月21日に南大沢駅は開業した。しかし、駅開設直後は駅周辺には何もない更地ばかりの状況だった。そこにあったのは「駅前の歩行者専用道路のデッキと雨避けのアーケードだけが目立つ」という様相で、新住区の団地は駅から約500m以南の離れた所に建設されていた。その後、南北双方の新住区で多摩ニュータウンの住宅建設が進捗し、東京都立大学「現・首都大学東京」が誘致された。

 東京都立大学は当初、南大沢ではなく立川市に移転する予定であったが、立川の用地が手狭で問題視されていたため、多摩ニュータウン開発により土地が確保できる南大沢に移転することになった。また大規模商業施設「ガレリア・ユギ」が建設され、忠実屋とそごうが入居した。1988年に正式に橋本に京王線が入ることが決まるやいなや、橋本駅近くの地価が5倍に急騰した。1990年、次男の青山大輔も兄と同じ県立相模原高校に入った。
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