第3話:甘太と恵さんの結婚式

文字数 1,508文字

 1973年4月、木下恵さんに甘太が金はできたと言いプロポーズ。すぐその足で八王子の結婚式場に行き1973年6月20日11時からと決めてきて恵さんが父の隆三さんに知らせた。

 急いで結婚式の招待状を近くに住む親戚に出し甘太は友人も含めて10人に招待状を送り、総勢50人の結婚式となった。6月20日は梅雨であいにくの天気にもかかわらず、家族、近親者7人に朝早く来ていただいた。

 そして文金高島田「ぶんきんたかしまだ」の恵さんを見て、きれいと言い、女性達が次々に一緒に記念写真を撮影。甘太は結婚式に紋付き袴で純和風でのぞんだ。12時から披露宴が始まり挨拶と歌などが披露され滞りなく結婚式は13時半に終了。

 その後、橋本駅前に2DKの呉服屋の親戚の使ってない部屋を月2万円で借り新婚生活を開始。実家まで徒歩10分で奥さんの木下恵が実家の呉服屋で仕事に出た。しかし古くて住み心地が悪いと恵さんが嘆いた。

そこで甘太が7月3日に木下洋品店のある橋本と甘太が手伝ってるいる姉の旅館のある津久井の中間地点の城山に3DKの新しいマンションを月6万円の家賃で借りた。その後、恵さんの家財道具を甘太がトラックを借り引越。

 そして毎朝、恵さんと橋本の実家・木下呉服店に送り18時に迎えに行った。普段、甘太は姉の旅館に待機し仕事が入ると旅館の小型トラックで買い物に行ったり、お客さんを釣り場に送迎したり、釣りに付き合ったりしていた。

 特に用事がない時は旅館で待機していた。結婚して半年がたった12月19日に恵さんの妊娠がわかったと甘太に連絡が入り旅館に事情を伝え木下呉服店に行くと、恵さんの御両親がおめでとうと言ってくれた。

 「予定日は1973年6月20日だそうよと恵さんのお母さんが語った」。やがて1974年を迎えた。この頃、神奈川県でも特に寒い相模原北部の津久井では路面凍結や雪が降ると坂道で車が立ち往生する事がしばしばあった。

 北国と同じようにスパイクタイヤが流行して甘太の車、旅館の小型トラックにも装着。冬はアパート室内でも寒いので石油ストーブを3つ買って厳寒期には、弱火でつけて寝る日もあるほど寒い。

 寒い冬を考えて1月から恵さんを実家で預かってもらう様に依頼。恵さんのお母さんも、その方が良いと言った。やがて3月になり徐々に暖かくなり4月になると恵さんのお腹が目立ち動くのが辛そうだ。

 そして6月18日に産気づいて近くの産婦人科病院に入院し1974年6月20日の朝、男の子を出産し、甘太の長男で寛一と命名。株の方では1974年11月ソニー株を500円で8千株購入、残金が130万円。

 寛一が生まれると仕事が暇な時、甘太は奥さんの実家の木下呉服店に行き寛一の寝顔をうれしそうに眺める。その後、姉の旅館から連絡が入ると車で仕事へ。恵さんは居心地が良いので、そのまま実家にいた。

 その年も秋、冬となり寒さが厳しくなってきたので、この年も実家で年を越し1975年を迎えた。甘太が新年の挨拶に木下呉服店を訪ね近くの神社に奥さんと寛一を連れて初詣でをして家内安全、家族の健康、商売繁盛を祈願。

1975年5月から城山の自宅に恵さんと寛一が帰宅。朝起きて朝食後、マンションを3人で出て橋本の木下呉服店に通う日々が始まった。株の方では1975年10月にソニー株8千株を1400円で売り税引き後利益630万円、残金が760万円。

 この頃、時代は好景気だと感じ茂田先輩に相談すると同感だと言った。株投資に積極的に出るべきだと考え郵便局定額貯金も下ろし総額3000万円で1978年2月にソニー株を615円で4万株を2460万円で買い残金が540万円となる。
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