第70話
文字数 3,001文字
〈ラディア〉の王、アスタ・バルザ・シェルベノムの死後、戦争は急速に収束へと向かった。
シーナは生き残ったモンスターや〈革命軍〉の仲間たちを指揮して、アスタ軍の残党狩りと、保護施設の開放を行った。
戦争の話を知らされていない保護施設の住人たちは、アスタの命で動いていた者らを排除したのち、シーナやその仲間たちの必死の説得で、状況を理解した。
施設の地下に囚われていたモンスターたちは、人間たちに
アスタの支配によって乱れていた〈ラディア〉の修復にはまだまだ時間が必要だったが、最終的にはすべてが落ち着き、新王を中心に国が穏やかに回り始めるだろう、と民たちは心に希望の光を灯した。
「ここでいいですか?」
〈革命軍〉のメンバーだった男——リックが、小麦粉がパンパンに詰まった麻袋を俺の傍に置いた。
「そこで大丈夫です。ありがとうございます」
王となったシーナが人々から慕われるのはわかるが、シーナの恋人という理由で、俺まで特別扱いされることに、まだ気持ちが馴染めていない。
丁寧な口調で話しかける者や、世話人の如くつきまとう者など、多くが俺の下に就こうと集まってきたが、そのたびに俺は「普通に接してほしい」と苦笑いした。
今、俺の代わりに小麦粉を運んできたリックも、俺を過大評価した者の一人だった。どうしても俺の手伝いをしたいと言って聞かないので、仕方なく、荷物運びをさせていた。
まだ破壊の傷跡が残る城下町を歩き、壊れた家々から調理器具を拾い集める。アスタが使用した魔法でばらまかれた毒素はシーナの魔法で浄化されたが、王都〈フレア〉の修復はまだ行われていない。
というよりも、アスタが使った魔法に対する恐怖心がまだ多くの者の内に残っているため、誰も近寄ろうとしないのだ。毒素の浄化を行ったシーナでさえも、まだ、アスタに対して嫌な気持ちがあるのか、王都には長居しないようにしていた。
様々なアイテムを好きなだけ集められるので、俺は今、ここを拠点として動いているが、時々、誰もいないはずの城から誰かがすすり泣く音が聞こえてきて、怖くなる時がある。きっとそれは、半壊状態の城に吹き込む風の音なのだろうが、ここで多くが命を落としたという事実がある以上、どうしてもホラーチックに考えを持っていってしまう。
「おいッ! パンはどうなったんだぜッ!?」
物拾いをしていたら、ヒュドラが現れた。保護施設の地下に囚われていた彼を解放後、行方がわからなくなっていたが、どうやら、俺と同じようにここに住んでいた——いや、自由奔放なヒュドラが同じ場所に留まっているとは思えない。旅をしていた時みたいに、俺の気配を辿って、ここまで来たのだろう。
「お久しぶりです。ヒュドラさん。パンはまだですね」
「いつになったら作るんだぜッ!? 作る作るって言って、全然作らねえじゃねーかッ!」
「必要なものが集まり次第、作り始めます」
大分遠回りになってしまったが、ようやく、本格的なパンの製造に取り掛かれそうだ。
シーナは夢を叶えて、〈ラディア〉で一番強い魔法使いになった。
次は、俺が夢を叶える番だ。
リックの魔法に助けられながら、俺は小麦粉を材料に使った、食パンの製造に成功した。
異世界転移する前、「ありきたり」という理由で製造数を減らしていたパンが、今、山ほど目の前にあった。
リックに味見をお願いすると、彼は断った。「そのパンに最初に口をつけるのは私ではありません」。俺がシーナとの思い出話を語り聞かせたせいだろうか。リックはパンの匂いにつられて現れたヒュドラにも、味見をさせようとしなかった。
パンが食べたくて落ち着かないヒュドラに、俺は一つ、仕事を頼んだ。「シーナさんに、パンが完成したことを伝えてほしい」。ヒュドラは、帰って来たらパンを好きなだけ食べさせてもらえることを条件に、シーナ捜しの旅に出た。
アスタが消えた後、この世界のモンスターたちは大人しくなった。多くが〈セクト島〉への移住を決めたのが理由だろう。アスタがモンスターたちに念入りにすり込んだ
人間が襲われる話が一切聞こえなくなったので、ヒュドラが道中で足止めを食らうことはないはずだった。もっとも、彼が旅に飽きて、寄り道でもし始めたのなら、話は変わってくるが……。
「お兄さん!」
ヒュドラが王都〈フレア〉を出発したすぐ後に、シーナが転移魔法で俺の前に現れた。
アスタ戦の後、手に入れた〈王の目〉が関係しているのかわからないが、シーナは俺の前に現れるタイミングが絶妙になった。
もしかしたら、アスタが遠く離れた場所を覗いていたように、シーナは俺の動向を、離れたところから覗いていたのかもしれない。
「お疲れ様です。シーナさん」
「パンが完成したの!?」
シーナはドミノみたいに並べられた食パンを見渡し、目を輝かせた。
「いっぱい作ったんだね! リックも、手伝ってくれてありがとう!」
リックは深々とお辞儀した。リックにとって、今のシーナは〈革命軍〉のリーダーではない。俺以上に気を遣った態度で、リックはシーナと向き合っていた。
「ちょっと待つんだぜッ! シーナがそこにいるんだぜッ!」
声を聞いたのか、それともシーナの気配を感じ取ったのか、ヒュドラが戻ってきた。
「早く食うんだぜッ! じゃないと、俺様が食えないんだぜッ!」
「うん!」
ヒュドラに急かされ、シーナは食パンを一つ両手で掴んだ。
子供の頃よりも、シーナは明るくなった。そんな気がする。
背負っていた重荷がある程度減ったからだろうか。〈ラディア〉の政治やアスタとの戦争の後始末で毎日あちこち転移しまくって、てんやわんやな毎日を過ごしているはずなのだが、疲れの色が一切見られない。
「いただきます!」
シーナはリンゴみたいに、食パンにかぶりついた。モグモグと咀嚼し、いきなり、時間を止められたみたいに固まってしまった。
「ど、毒入りだぜッ!?」
「違いますよ!」
物騒なことを口にするヒュドラに俺は慌てて突っ込んだ。
「も、もしかしたら、私のやり方が間違っていて、パンの味が変わってしまったのでは……!?」
「ちゃんと味見しました。味に問題はありません」
シーナに先に食べてもらいたかったが、一応、味だけは確認しておいた方がいいと思い、俺は少しだけ口に入れていた。
だから、リックがミスをしたわけではなくて、この場合はシーナが——
「お、美味しい!」
動き出したシーナは、写真に収めたいほど可愛らしい笑みを浮かべていた。
どうやら、食パンを気に入ってもらえたらしい。
ヒュドラとリックにも食パンを勧め、皆が食事を楽しむ姿を眺めながら、俺は一息ついた。
……約束、守れてよかった。
心の中でそう呟く。シーナには言葉にせずとも伝わっていたようで、俺の方に顔を向け、小さく頷いた。
「これから、忙しくなりますよ」
俺の言葉に、シーナ、ヒュドラ、リックは食パンをくわえたまま首を傾げた。
「〈異世界でパンブームを起こしたい〉。……私の、夢なんです」
ヒュドラとリックはキョトンとしていたが、シーナだけは「そうだったね」と笑顔で応えた。
〈了〉
シーナは生き残ったモンスターや〈革命軍〉の仲間たちを指揮して、アスタ軍の残党狩りと、保護施設の開放を行った。
戦争の話を知らされていない保護施設の住人たちは、アスタの命で動いていた者らを排除したのち、シーナやその仲間たちの必死の説得で、状況を理解した。
施設の地下に囚われていたモンスターたちは、人間たちに
復讐しないこと
を条件に、シーナの手によって全員解放された。アスタの支配によって乱れていた〈ラディア〉の修復にはまだまだ時間が必要だったが、最終的にはすべてが落ち着き、新王を中心に国が穏やかに回り始めるだろう、と民たちは心に希望の光を灯した。
「ここでいいですか?」
〈革命軍〉のメンバーだった男——リックが、小麦粉がパンパンに詰まった麻袋を俺の傍に置いた。
「そこで大丈夫です。ありがとうございます」
王となったシーナが人々から慕われるのはわかるが、シーナの恋人という理由で、俺まで特別扱いされることに、まだ気持ちが馴染めていない。
丁寧な口調で話しかける者や、世話人の如くつきまとう者など、多くが俺の下に就こうと集まってきたが、そのたびに俺は「普通に接してほしい」と苦笑いした。
今、俺の代わりに小麦粉を運んできたリックも、俺を過大評価した者の一人だった。どうしても俺の手伝いをしたいと言って聞かないので、仕方なく、荷物運びをさせていた。
まだ破壊の傷跡が残る城下町を歩き、壊れた家々から調理器具を拾い集める。アスタが使用した魔法でばらまかれた毒素はシーナの魔法で浄化されたが、王都〈フレア〉の修復はまだ行われていない。
というよりも、アスタが使った魔法に対する恐怖心がまだ多くの者の内に残っているため、誰も近寄ろうとしないのだ。毒素の浄化を行ったシーナでさえも、まだ、アスタに対して嫌な気持ちがあるのか、王都には長居しないようにしていた。
様々なアイテムを好きなだけ集められるので、俺は今、ここを拠点として動いているが、時々、誰もいないはずの城から誰かがすすり泣く音が聞こえてきて、怖くなる時がある。きっとそれは、半壊状態の城に吹き込む風の音なのだろうが、ここで多くが命を落としたという事実がある以上、どうしてもホラーチックに考えを持っていってしまう。
「おいッ! パンはどうなったんだぜッ!?」
物拾いをしていたら、ヒュドラが現れた。保護施設の地下に囚われていた彼を解放後、行方がわからなくなっていたが、どうやら、俺と同じようにここに住んでいた——いや、自由奔放なヒュドラが同じ場所に留まっているとは思えない。旅をしていた時みたいに、俺の気配を辿って、ここまで来たのだろう。
「お久しぶりです。ヒュドラさん。パンはまだですね」
「いつになったら作るんだぜッ!? 作る作るって言って、全然作らねえじゃねーかッ!」
「必要なものが集まり次第、作り始めます」
大分遠回りになってしまったが、ようやく、本格的なパンの製造に取り掛かれそうだ。
シーナは夢を叶えて、〈ラディア〉で一番強い魔法使いになった。
次は、俺が夢を叶える番だ。
リックの魔法に助けられながら、俺は小麦粉を材料に使った、食パンの製造に成功した。
異世界転移する前、「ありきたり」という理由で製造数を減らしていたパンが、今、山ほど目の前にあった。
リックに味見をお願いすると、彼は断った。「そのパンに最初に口をつけるのは私ではありません」。俺がシーナとの思い出話を語り聞かせたせいだろうか。リックはパンの匂いにつられて現れたヒュドラにも、味見をさせようとしなかった。
パンが食べたくて落ち着かないヒュドラに、俺は一つ、仕事を頼んだ。「シーナさんに、パンが完成したことを伝えてほしい」。ヒュドラは、帰って来たらパンを好きなだけ食べさせてもらえることを条件に、シーナ捜しの旅に出た。
アスタが消えた後、この世界のモンスターたちは大人しくなった。多くが〈セクト島〉への移住を決めたのが理由だろう。アスタがモンスターたちに念入りにすり込んだ
人間の怖さ
が、自らの意思で人から距離を置くことを望んだのだ。人間が襲われる話が一切聞こえなくなったので、ヒュドラが道中で足止めを食らうことはないはずだった。もっとも、彼が旅に飽きて、寄り道でもし始めたのなら、話は変わってくるが……。
「お兄さん!」
ヒュドラが王都〈フレア〉を出発したすぐ後に、シーナが転移魔法で俺の前に現れた。
アスタ戦の後、手に入れた〈王の目〉が関係しているのかわからないが、シーナは俺の前に現れるタイミングが絶妙になった。
もしかしたら、アスタが遠く離れた場所を覗いていたように、シーナは俺の動向を、離れたところから覗いていたのかもしれない。
「お疲れ様です。シーナさん」
「パンが完成したの!?」
シーナはドミノみたいに並べられた食パンを見渡し、目を輝かせた。
「いっぱい作ったんだね! リックも、手伝ってくれてありがとう!」
リックは深々とお辞儀した。リックにとって、今のシーナは〈革命軍〉のリーダーではない。俺以上に気を遣った態度で、リックはシーナと向き合っていた。
「ちょっと待つんだぜッ! シーナがそこにいるんだぜッ!」
声を聞いたのか、それともシーナの気配を感じ取ったのか、ヒュドラが戻ってきた。
「早く食うんだぜッ! じゃないと、俺様が食えないんだぜッ!」
「うん!」
ヒュドラに急かされ、シーナは食パンを一つ両手で掴んだ。
子供の頃よりも、シーナは明るくなった。そんな気がする。
背負っていた重荷がある程度減ったからだろうか。〈ラディア〉の政治やアスタとの戦争の後始末で毎日あちこち転移しまくって、てんやわんやな毎日を過ごしているはずなのだが、疲れの色が一切見られない。
「いただきます!」
シーナはリンゴみたいに、食パンにかぶりついた。モグモグと咀嚼し、いきなり、時間を止められたみたいに固まってしまった。
「ど、毒入りだぜッ!?」
「違いますよ!」
物騒なことを口にするヒュドラに俺は慌てて突っ込んだ。
「も、もしかしたら、私のやり方が間違っていて、パンの味が変わってしまったのでは……!?」
「ちゃんと味見しました。味に問題はありません」
シーナに先に食べてもらいたかったが、一応、味だけは確認しておいた方がいいと思い、俺は少しだけ口に入れていた。
だから、リックがミスをしたわけではなくて、この場合はシーナが——
「お、美味しい!」
動き出したシーナは、写真に収めたいほど可愛らしい笑みを浮かべていた。
どうやら、食パンを気に入ってもらえたらしい。
ヒュドラとリックにも食パンを勧め、皆が食事を楽しむ姿を眺めながら、俺は一息ついた。
……約束、守れてよかった。
心の中でそう呟く。シーナには言葉にせずとも伝わっていたようで、俺の方に顔を向け、小さく頷いた。
「これから、忙しくなりますよ」
俺の言葉に、シーナ、ヒュドラ、リックは食パンをくわえたまま首を傾げた。
「〈異世界でパンブームを起こしたい〉。……私の、夢なんです」
ヒュドラとリックはキョトンとしていたが、シーナだけは「そうだったね」と笑顔で応えた。
〈了〉