第29話
文字数 4,798文字
俺は初めて、〈魔動機〉を直接見た。
〈魔動機〉は、蛇に似た縞模様がびっしりと描かれた長方形の箱で、魔法の力が働いているせいなのか、地面から数センチ浮かんでおり、それが〈バスルーン湿原〉の入り口から左右に点々と並べてあった。
内部の様子を確認しようと覗いてみたが、霧が濃くてよくわからなかった。
遠くの方へ目をやると、雲から山の天辺が突き出すみたいに、高い木があちこちから突出しているのが見えた。
「入り口には警備がいる。気づかれないように移動しよう」
アッシュの言葉に頷き、俺たちは人がいない場所を探して歩いた。
すぐ傍の森からは鳥の鳴き声が聞こえてくるのに、湿原からは何も音が聞こえてこないのは不気味だ。
湿原に住むモンスターたちは、みんな揃って、外から獲物が入り込むのを息を殺して待ち構えているのかもしれない。
歩いていると、ドミノみたいに並んだ〈魔動機〉が嫌でも目に入った。
湿原にいるモンスターを絶対に他の土地へ行かせたくない、という強い意志を感じさせる、とんでもない数だ。
入る時、〈魔動機〉は邪魔にならないが、この数を見て、入りたいと思う者はいないだろう。
俺たちみたいに、何かしらの理由がなければ……。
「この辺でいいだろう。中に入るぞ」
入り口から二キロほど離れたところから、俺たちはシーナを先頭に、〈バスルーン湿原〉へと足を踏み入れた。
「……うおっ!?」
〈魔動機〉を跨いで中に入った俺は、いきなり片足をぬかるみに突っ込んでしまった。
驚きはしたが、足は無事だ。念のため、と村で買った長靴に履き替えておいてよかった。
余程激しく動かなければ足を濡らすことはなさそうだが、そこら中がぬかるんでいて歩き辛いのはどうしようもない。
「シーナさん。アッシュ」
霧が濃くて仲間たちの姿がよく見えないので、俺は声で安否確認を行った。
「いるよ。こっちだよ」
「ショウ、どこにいるんだ?」
声が聞こえた方へ、俺は歩いた。
足元からグシュグシュと気持ちの悪い音が鳴る。いきなり深い沼に落ちたらどうしよう、と不安になった。
「お兄さん! こっちこっち!」
「なにやってんだショウ! 置いて行くぞ!」
ぬかるみに足を取られながら、俺は早歩きで行く。
しかし、呼ぶ声は絶え間なく聞こえるのに、姿だけがまったく見えない。
シーナとアッシュは、俺を待つ気があるのだろうか。
不安が焦りに変わり、焦りが苛立ちに変わり始めた、その時だった。
俺は、全身に謎の圧迫を感じた。
同時に、視界が闇に染まる。手にヌルヌルとした感触があり、人肌みたいに生暖かい。
何がなんだかわからないうちに、俺の身体が、ヌルヌルした変な物体に押されてスライドしていく。
声を上げたいが、胸を圧迫されていて呼吸するのがやっとの状態だ。
全力で暴れるが、状況は変わらない。
そのうち疲れて、しかもここは空気が薄いらしく、俺は窒息し、気を失ってしまった。
「……お兄さん。生きてる?」
シーナの声で、俺はハッと我に返った。
視界が明るい。どうなっているんだ。
俺がさっきまで何をしていたのか、よく思い出せない。
わかっているのは、俺が湿った地面に仰向けで倒れていて、その顔を、シーナとアッシュが心配そうに覗き込んでいることだけ。
立ち上がって、俺は身震いした。
全身が、謎のヌルヌルでぐっしょり濡れ、肌が冷やされて寒かった。
震えながら、俺はシーナに訊ねた。
「状況説明をお願いします……」
「お兄さんは食べられたんだよ。そこにいるモンスターに」
シーナが指差した方に目をやって、俺はギョッとした。
そこにいたのは、全長五メートルを超える、巨大なアマガエルだった。
そいつが大の字にひっくり返って、開いた口からイソギンチャクの触手に似た無数の真っ赤な舌を伸ばしてくたばっている。
「な、ななな、なんだコイツはッ!?」
「気絶させたから、怖がらなくて大丈夫だよ」
シーナはそう言うが、俺は怖くて堪らない。
いつ、どのタイミングで、俺はコイツに食われたのだろう。まったく記憶に無い。
これだけの巨体が近くにいたら、さすがに認知できるはずだが……。
「そのモンスター。出会ったのは初めてだけれど、モンスター図鑑で見たことがある」
シーナが説明してくれた。
「〈フローグ族〉という種族の、〈アマピョン〉という名前のモンスターだよ。姿を景色と同化させる魔法や、対象の記憶を覗き見て、幻覚や幻聴を作り出す魔法など、相手を騙す魔法を数多く習得した知能の高いモンスターだって、図鑑に書いてあった。お兄さんは〈アマピョン〉に騙され、自らの足で口の中に入ってしまったんだよ」
どうやら、俺が仲間の声だと思って近づいた相手は、コイツだったようだ。
そして俺は、あの大きな口で丸呑みにされた。
ネズミ捕りに引っかかるネズミよりも馬鹿みたいにあっさり騙されるなんて……。引っかかって言うのもアレだが、信じられない。
「ところで、荷物はどこ? 〈アマピョン〉に食べられちゃった?」
シーナに訊かれて、俺はハッとなった。
旅に役立つと思って買ったアイテムと、大量の金が詰まった重いバッグを背負っていたはずだが、それがいつの間にか無くなっている。
食われた時に外れてしまったのだろうか。
俺は〈アマピョン〉の口の中を覗き込んだ。
けれど、グロテスクなものばかりで、俺のバッグは見当たらない。
巨大カエルの口の中を見ていたら気分が悪くなってきたので、バッグ探しを止めて仲間たちの方へ走って戻ると、
「……マジかよ」
またしても、シーナとアッシュの姿が消えてしまっていた。
いい加減にしろ、と思いながら周囲を見渡すが、霧が濃くて何も見えない。
声を上げたいが、モンスターが集まって来たらマズいので、止めておく。
せわしなく周囲に目をやる俺の耳に、聞き覚えのある声が多方向から聞こえてきた。
「お兄さん。こっちだよ」
「お兄さん。こっちだよ」
「お兄さん。こっちだよ」
「…………」
いや、嘘だろ。
声の主はシーナだと思うが、複数人いるのはおかしい。
きっと、どれか一つが本物で、それ以外が嘘だ。シーナの声を真似た、モンスターの声だと思う。
「また騙そうってか……。ふざけやがって、俺を舐めるなよ」
カエルに食われて警戒心が強くなった俺は、強い口調で言った。
「シーナさん、質問があります。あなたが一番好きなものはなんですか?」
シーナが一番好きなもの。多分、『お兄さん』と答える。
「それは、お兄さんだよ」
「多分、お兄さんだよ」
「わからないけど、みんなお兄さんって言っているから、お兄さんってことで」
「…………」
何体いるんだ。俺を騙そうとしている奴は。
「いいから早く来い」
「こっちに来い」
「こっちに来いって言っている奴は全員嘘つきだから、こっちが正しいよ」
喋っている奴全員、偽物に思えてきた。
俺は、どうすればいいんだ。
「……ん?」
俺を誘うシーナの声。それらは、本当に僅かだが、声音に違いがある。
冷静に聴かないと気づかないくらいの違いだが、俺は極限の状況下で聴力が研ぎ澄まされ、その違いに気づけた。
「こっちだよ」
今の声は、本物よりも少し高い。多分、偽物だ。
「こっちに来い」
今のは一番わかりやすい。オカマが喋ったみたいに、低い声だ。
「呼んでも来ない。また捕まっちゃったのかな」
最後の声だ。三番目に喋った主が、本物のシーナだ。
俺は声の聞こえた方へ走った。
そこにいた人影に「シーナさん!」と呼びかける。
「はいッ! 大正解ッ!」
シーナとは似ても似つかない濁声を上げながら、巨大なワニが、大人一人を丸吞みにできそうなほどの大口を開けて霧の中から飛び出して来た。
「はッ!? えぇえええええッ!?」
驚いて立ち止まった俺に、牙がびっしりと生えたワニの口が迫る。
回避は間に合わない。終わった。〈了〉。
「お兄さん!」
シーナの声が聞こえたと同時に、ワニの頭部がハンマーで殴られたみたいに地面にめり込んだ。
ピクピクと動いているワニの下半身を見て、俺は茫然とした。
「おいショウ! 大丈夫か!?」
「お兄さん! 怪我してない!?」
駆け寄って来たアッシュとシーナを見て、俺は身構えた。
コイツらも、人の姿に化けたモンスターかもしれない。
本物と偽物の区別がつかず、怯える俺に、ガバッとシーナが抱きついた。
「大丈夫。私は本物だよ」
「……はい」
俺は確かめるように、シーナの身体を優しく抱きしめた。
ふわりとした感触も、ベリーに似た甘い匂いのする髪も、落ち着いた声も、何もかもが俺の知っているシーナだったが、肩に入った力は抜けなかった。
疑心暗鬼。今の俺は、パーティー内で一番の厄介者と化していた。
もしかすると、〈バスルーン湿原〉の横断に失敗する者たちの多くが、今の俺と同じ状態になっていたのではないだろうか。
誰が仲間で、誰がモンスターなのか判別ができなくなり、パーティーは崩壊。後は一人ずつ、モンスターの餌食となって、最後は誰もいなくなる。
「お兄さん。落ち着いた?」
「…………」
シーナに背中を撫でられている間も、俺は目の前にいる少女が偽物なのではないかと警戒していた。
「さっき、お兄さんを襲った奴も、図鑑で見たことがある。確か、〈ゲーター族〉の〈パニー〉という名前のモンスターだよ。巨体のせいで動きは鈍いけれど、人語を真似て獲物を食べやすい位置まで誘導する、狡猾なモンスター」
カエルと合わせて、これで二回、俺は死んでいたことになる。
三度目が来ることに怯え、俺の目はカメレオンのようにせわしなく動いていた。
「お前さぁ、ホントいい加減にしろよな!」
俺が、あまりにも簡単にトラップに引っかかるものだから、アッシュは苛立っていた。
「アタシが呼んだじゃねえか! 『こっちに来い』って! なんで騙されるんだよ!?」
「いや、お前……。なんでワニと同じ言葉を喋るんだよ」
「アタシが頑張ってシーナ嬢の声真似したのに、何故わからないんだ!?」
「本人に喋らせろ」
アッシュに突っ込んだ後、俺は探していた物を発見した。
俺が背負っていたバッグが、地面に放置されていた。
結構近くにあったのに、気がつかなかったなんて不思議だ。
シーナから離れ、俺がバッグに手を伸ばした瞬間、袋の部分に大きな切れ目が入り、それは牙の生えた口となって、俺に襲いかかって来た。
「危ない!」
人食いバッグは、アッシュのキックで吹っ飛んだ。
地面に落下したバッグは、クモみたいな脚を生やして、どこかへ走り去ってしまった。
「おい。三度目だぞ、ショウちゃん?」
腰に手を当てて、アッシュが俺を睨む。
俺は何も言えなかった。
バッグが生き物になって走り去ったことに驚愕し、意識が全部そっちに持っていかれてしまっていたせいだ。
「今のは、どう見てもバッグじゃあないね」
シーナが俺に説明した。
「あれは多分、物に化ける変身魔法を習得した、〈ミミック族〉の〈ミッキュ〉だよ。お兄さんの本物のバッグは、多分もう、別のモンスターに盗られちゃったと思う」
なんてことだ。最悪じゃあないか。
俺は三回も死にかけただけじゃあなく、大事なバッグまで失ってしまった。
思わず溜息が出た。
まさか、初っ端から〈バスルーン湿原〉の洗礼を受けることになるとは……。それも、こんなにあっさり、何度も……。
だが、何度も死にかけたおかげで、ここがどういう場所なのか理解できた。
〈バスルーン湿原〉は、日夜、モンスター同士の命を懸けた騙し合いが繰り広げられる場所なのだ。
濃い霧も、ぬかるんだ足場も、魔法も、使えるものは何でも使って、モンスターたちは生きるための餌を手に入れようと必死になっている。
俺がここへ来るまでに入った〈危険区域〉が可愛く思えるほど、〈バスルーン湿原〉は過酷な環境の土地だった。
〈魔動機〉は、蛇に似た縞模様がびっしりと描かれた長方形の箱で、魔法の力が働いているせいなのか、地面から数センチ浮かんでおり、それが〈バスルーン湿原〉の入り口から左右に点々と並べてあった。
内部の様子を確認しようと覗いてみたが、霧が濃くてよくわからなかった。
遠くの方へ目をやると、雲から山の天辺が突き出すみたいに、高い木があちこちから突出しているのが見えた。
「入り口には警備がいる。気づかれないように移動しよう」
アッシュの言葉に頷き、俺たちは人がいない場所を探して歩いた。
すぐ傍の森からは鳥の鳴き声が聞こえてくるのに、湿原からは何も音が聞こえてこないのは不気味だ。
湿原に住むモンスターたちは、みんな揃って、外から獲物が入り込むのを息を殺して待ち構えているのかもしれない。
歩いていると、ドミノみたいに並んだ〈魔動機〉が嫌でも目に入った。
湿原にいるモンスターを絶対に他の土地へ行かせたくない、という強い意志を感じさせる、とんでもない数だ。
入る時、〈魔動機〉は邪魔にならないが、この数を見て、入りたいと思う者はいないだろう。
俺たちみたいに、何かしらの理由がなければ……。
「この辺でいいだろう。中に入るぞ」
入り口から二キロほど離れたところから、俺たちはシーナを先頭に、〈バスルーン湿原〉へと足を踏み入れた。
「……うおっ!?」
〈魔動機〉を跨いで中に入った俺は、いきなり片足をぬかるみに突っ込んでしまった。
驚きはしたが、足は無事だ。念のため、と村で買った長靴に履き替えておいてよかった。
余程激しく動かなければ足を濡らすことはなさそうだが、そこら中がぬかるんでいて歩き辛いのはどうしようもない。
「シーナさん。アッシュ」
霧が濃くて仲間たちの姿がよく見えないので、俺は声で安否確認を行った。
「いるよ。こっちだよ」
「ショウ、どこにいるんだ?」
声が聞こえた方へ、俺は歩いた。
足元からグシュグシュと気持ちの悪い音が鳴る。いきなり深い沼に落ちたらどうしよう、と不安になった。
「お兄さん! こっちこっち!」
「なにやってんだショウ! 置いて行くぞ!」
ぬかるみに足を取られながら、俺は早歩きで行く。
しかし、呼ぶ声は絶え間なく聞こえるのに、姿だけがまったく見えない。
シーナとアッシュは、俺を待つ気があるのだろうか。
不安が焦りに変わり、焦りが苛立ちに変わり始めた、その時だった。
俺は、全身に謎の圧迫を感じた。
同時に、視界が闇に染まる。手にヌルヌルとした感触があり、人肌みたいに生暖かい。
何がなんだかわからないうちに、俺の身体が、ヌルヌルした変な物体に押されてスライドしていく。
声を上げたいが、胸を圧迫されていて呼吸するのがやっとの状態だ。
全力で暴れるが、状況は変わらない。
そのうち疲れて、しかもここは空気が薄いらしく、俺は窒息し、気を失ってしまった。
「……お兄さん。生きてる?」
シーナの声で、俺はハッと我に返った。
視界が明るい。どうなっているんだ。
俺がさっきまで何をしていたのか、よく思い出せない。
わかっているのは、俺が湿った地面に仰向けで倒れていて、その顔を、シーナとアッシュが心配そうに覗き込んでいることだけ。
立ち上がって、俺は身震いした。
全身が、謎のヌルヌルでぐっしょり濡れ、肌が冷やされて寒かった。
震えながら、俺はシーナに訊ねた。
「状況説明をお願いします……」
「お兄さんは食べられたんだよ。そこにいるモンスターに」
シーナが指差した方に目をやって、俺はギョッとした。
そこにいたのは、全長五メートルを超える、巨大なアマガエルだった。
そいつが大の字にひっくり返って、開いた口からイソギンチャクの触手に似た無数の真っ赤な舌を伸ばしてくたばっている。
「な、ななな、なんだコイツはッ!?」
「気絶させたから、怖がらなくて大丈夫だよ」
シーナはそう言うが、俺は怖くて堪らない。
いつ、どのタイミングで、俺はコイツに食われたのだろう。まったく記憶に無い。
これだけの巨体が近くにいたら、さすがに認知できるはずだが……。
「そのモンスター。出会ったのは初めてだけれど、モンスター図鑑で見たことがある」
シーナが説明してくれた。
「〈フローグ族〉という種族の、〈アマピョン〉という名前のモンスターだよ。姿を景色と同化させる魔法や、対象の記憶を覗き見て、幻覚や幻聴を作り出す魔法など、相手を騙す魔法を数多く習得した知能の高いモンスターだって、図鑑に書いてあった。お兄さんは〈アマピョン〉に騙され、自らの足で口の中に入ってしまったんだよ」
どうやら、俺が仲間の声だと思って近づいた相手は、コイツだったようだ。
そして俺は、あの大きな口で丸呑みにされた。
ネズミ捕りに引っかかるネズミよりも馬鹿みたいにあっさり騙されるなんて……。引っかかって言うのもアレだが、信じられない。
「ところで、荷物はどこ? 〈アマピョン〉に食べられちゃった?」
シーナに訊かれて、俺はハッとなった。
旅に役立つと思って買ったアイテムと、大量の金が詰まった重いバッグを背負っていたはずだが、それがいつの間にか無くなっている。
食われた時に外れてしまったのだろうか。
俺は〈アマピョン〉の口の中を覗き込んだ。
けれど、グロテスクなものばかりで、俺のバッグは見当たらない。
巨大カエルの口の中を見ていたら気分が悪くなってきたので、バッグ探しを止めて仲間たちの方へ走って戻ると、
「……マジかよ」
またしても、シーナとアッシュの姿が消えてしまっていた。
いい加減にしろ、と思いながら周囲を見渡すが、霧が濃くて何も見えない。
声を上げたいが、モンスターが集まって来たらマズいので、止めておく。
せわしなく周囲に目をやる俺の耳に、聞き覚えのある声が多方向から聞こえてきた。
「お兄さん。こっちだよ」
「お兄さん。こっちだよ」
「お兄さん。こっちだよ」
「…………」
いや、嘘だろ。
声の主はシーナだと思うが、複数人いるのはおかしい。
きっと、どれか一つが本物で、それ以外が嘘だ。シーナの声を真似た、モンスターの声だと思う。
「また騙そうってか……。ふざけやがって、俺を舐めるなよ」
カエルに食われて警戒心が強くなった俺は、強い口調で言った。
「シーナさん、質問があります。あなたが一番好きなものはなんですか?」
シーナが一番好きなもの。多分、『お兄さん』と答える。
「それは、お兄さんだよ」
「多分、お兄さんだよ」
「わからないけど、みんなお兄さんって言っているから、お兄さんってことで」
「…………」
何体いるんだ。俺を騙そうとしている奴は。
「いいから早く来い」
「こっちに来い」
「こっちに来いって言っている奴は全員嘘つきだから、こっちが正しいよ」
喋っている奴全員、偽物に思えてきた。
俺は、どうすればいいんだ。
「……ん?」
俺を誘うシーナの声。それらは、本当に僅かだが、声音に違いがある。
冷静に聴かないと気づかないくらいの違いだが、俺は極限の状況下で聴力が研ぎ澄まされ、その違いに気づけた。
「こっちだよ」
今の声は、本物よりも少し高い。多分、偽物だ。
「こっちに来い」
今のは一番わかりやすい。オカマが喋ったみたいに、低い声だ。
「呼んでも来ない。また捕まっちゃったのかな」
最後の声だ。三番目に喋った主が、本物のシーナだ。
俺は声の聞こえた方へ走った。
そこにいた人影に「シーナさん!」と呼びかける。
「はいッ! 大正解ッ!」
シーナとは似ても似つかない濁声を上げながら、巨大なワニが、大人一人を丸吞みにできそうなほどの大口を開けて霧の中から飛び出して来た。
「はッ!? えぇえええええッ!?」
驚いて立ち止まった俺に、牙がびっしりと生えたワニの口が迫る。
回避は間に合わない。終わった。〈了〉。
「お兄さん!」
シーナの声が聞こえたと同時に、ワニの頭部がハンマーで殴られたみたいに地面にめり込んだ。
ピクピクと動いているワニの下半身を見て、俺は茫然とした。
「おいショウ! 大丈夫か!?」
「お兄さん! 怪我してない!?」
駆け寄って来たアッシュとシーナを見て、俺は身構えた。
コイツらも、人の姿に化けたモンスターかもしれない。
本物と偽物の区別がつかず、怯える俺に、ガバッとシーナが抱きついた。
「大丈夫。私は本物だよ」
「……はい」
俺は確かめるように、シーナの身体を優しく抱きしめた。
ふわりとした感触も、ベリーに似た甘い匂いのする髪も、落ち着いた声も、何もかもが俺の知っているシーナだったが、肩に入った力は抜けなかった。
疑心暗鬼。今の俺は、パーティー内で一番の厄介者と化していた。
もしかすると、〈バスルーン湿原〉の横断に失敗する者たちの多くが、今の俺と同じ状態になっていたのではないだろうか。
誰が仲間で、誰がモンスターなのか判別ができなくなり、パーティーは崩壊。後は一人ずつ、モンスターの餌食となって、最後は誰もいなくなる。
「お兄さん。落ち着いた?」
「…………」
シーナに背中を撫でられている間も、俺は目の前にいる少女が偽物なのではないかと警戒していた。
「さっき、お兄さんを襲った奴も、図鑑で見たことがある。確か、〈ゲーター族〉の〈パニー〉という名前のモンスターだよ。巨体のせいで動きは鈍いけれど、人語を真似て獲物を食べやすい位置まで誘導する、狡猾なモンスター」
カエルと合わせて、これで二回、俺は死んでいたことになる。
三度目が来ることに怯え、俺の目はカメレオンのようにせわしなく動いていた。
「お前さぁ、ホントいい加減にしろよな!」
俺が、あまりにも簡単にトラップに引っかかるものだから、アッシュは苛立っていた。
「アタシが呼んだじゃねえか! 『こっちに来い』って! なんで騙されるんだよ!?」
「いや、お前……。なんでワニと同じ言葉を喋るんだよ」
「アタシが頑張ってシーナ嬢の声真似したのに、何故わからないんだ!?」
「本人に喋らせろ」
アッシュに突っ込んだ後、俺は探していた物を発見した。
俺が背負っていたバッグが、地面に放置されていた。
結構近くにあったのに、気がつかなかったなんて不思議だ。
シーナから離れ、俺がバッグに手を伸ばした瞬間、袋の部分に大きな切れ目が入り、それは牙の生えた口となって、俺に襲いかかって来た。
「危ない!」
人食いバッグは、アッシュのキックで吹っ飛んだ。
地面に落下したバッグは、クモみたいな脚を生やして、どこかへ走り去ってしまった。
「おい。三度目だぞ、ショウちゃん?」
腰に手を当てて、アッシュが俺を睨む。
俺は何も言えなかった。
バッグが生き物になって走り去ったことに驚愕し、意識が全部そっちに持っていかれてしまっていたせいだ。
「今のは、どう見てもバッグじゃあないね」
シーナが俺に説明した。
「あれは多分、物に化ける変身魔法を習得した、〈ミミック族〉の〈ミッキュ〉だよ。お兄さんの本物のバッグは、多分もう、別のモンスターに盗られちゃったと思う」
なんてことだ。最悪じゃあないか。
俺は三回も死にかけただけじゃあなく、大事なバッグまで失ってしまった。
思わず溜息が出た。
まさか、初っ端から〈バスルーン湿原〉の洗礼を受けることになるとは……。それも、こんなにあっさり、何度も……。
だが、何度も死にかけたおかげで、ここがどういう場所なのか理解できた。
〈バスルーン湿原〉は、日夜、モンスター同士の命を懸けた騙し合いが繰り広げられる場所なのだ。
濃い霧も、ぬかるんだ足場も、魔法も、使えるものは何でも使って、モンスターたちは生きるための餌を手に入れようと必死になっている。
俺がここへ来るまでに入った〈危険区域〉が可愛く思えるほど、〈バスルーン湿原〉は過酷な環境の土地だった。