第65話

文字数 4,924文字

 アスタの城を調査していたシーナは、ピタリと足を止めた。何か、嫌なものが近づいてきている。生き物ではない。空気の中に混じった潮の臭いで嵐の到来を知るように、シーナは自身に近づいて来る嫌なものが、とてつもない災厄を生み出す危険因子だと直感した。

 突然、シーナは立ちくらみを覚えた。何かが自分に触れ、そしていきなり、体調に異変が現れたのだ。警戒していなければ、触れられたことに気がつかないレベルのソフトタッチだった。

 次の瞬間、シーナは嗚咽した。最初は少しピリピリとした痛みを感じた程度だった。それが、じわじわと激しさを増していき、今はもう、立っているのがやっとなほどの、地獄の苦しみへと変貌していた。

「……っ! なに、これ……? 頭がおかしくなりそう……!」

 堪らず、シーナはその場に膝をつき、胃の中のものを床に吐き出した。腐った卵のような異臭が鼻にこびりつき、口の中は強烈な苦味で満ちていた。体温がみるみる下がっているのか、全身に鳥肌がたち、手足の震えが止まらない。視界はかき回した水のように渦を巻いていて、ずっと目を開けていたら眼球が飛び出してしまいそうだった。

 どうする。どうすればいい。シーナは体調不良に苦しみながら、それでもなんとか思考を続けた。現在のこの状況に簡単な説明を付けるなら、魔法による攻撃。生物を殺傷する目的で製造された兵器による攻撃という可能性は、ゼロといっていいだろう。何故なら、肌が感じ取るエネルギーは、自身がこれまでに幾度となく受けた魔法による攻撃で発生する魔粒子の波動と酷似しているからである。

「く、クソッ……!」

 シーナは悔しさに歯噛みした。魔法の攻撃を防ぐ自信はある。生まれた時から今日まで毎日、魔粒子を操る訓練をかさねてきた。今の自分は、かつて目指していた父に匹敵する魔法の使い手であると自負している。それなのに、何もできず床に這いつくばっているのだ。悔しがらずにはいられない。

 魔法を使う余裕があった時点で、身の回りに魔力を遮断する層を形成していれば、一歩も動けなくなるという最悪の展開を防止できた気がする。そもそも、アスタの城に入る前から——いやもっと前、王都〈フレア〉に攻め込む前から、身を守る盾を用意しておくべきだったのだ。アスタとの決戦に備えて魔力を温存し、緊急事態以外に魔法の乱用を制限していたことが裏目に出てしまった。してやられた、ではなく、これは完全に自分が招いた悪い結果だ。

 ゴンッ、とシーナは額を床に打ちつけた。反省会はまだ早いだろ。早くなんとかしろ。自分で自分を叱咤し、最悪の状況から抜け出す手立てを模索する。とりあえず、回復魔法で体調不良を治そうか、と自身の不調部位を魔力で探ってみたが、どこをどう手をつけていいのかわからない。何千という有害成分を凝縮した毒薬を投与されたような状態なので、解毒剤の生成などできるわけがない。

『大丈夫か。シーナ』

 ハープの音色に似た美しい声が脳内で響いた瞬間、先ほどまで自身を苦しめていたすべてのものが、きれいさっぱり洗い流された。それだけでなく、追加の効果も受け付けない。太陽の光を絹に変え、丁寧に織られた衣を纏っているかのように、身体がポカポカと暖かくなった。

「……ミル。ありがとう」

 自分ではどうすることもできなかった魔法攻撃。そんなものを防げるのは、自分よりも優れた魔法使いであるミルマルカリネしか、味方にはいなかった。立ち上がると、やはりというか当然というか、巨大な蝶のモンスターが、シーナの傍にふわふわと浮かんでいた。

「ミルはなんともないの?」

『私は常に、あらゆる災いから身を守るオーラを纏っている』

 そういえばそうだった、とシーナは納得する。ミルマルカリネは魔法の持続力が異常に強く、回復と発動をエンドレスで行えるほどだ。ミルマルカリネに近づいたものは、目には見えない謎の圧力を受けるだろう。ミルマルカリネが纏っているオーラに触れているから、そう感じるのだ。

『シーナよ。どうやら、生き残っているのは私とお前だけのようだ』

「えっ!? 他のみんなは!?」

 叫んだ拍子に目まいがきて、シーナは崩れ落ちそうになった。

『無理をするな。お前の身体にはまだ、死の効果を持つ魔力が残っている』

「なんなの、これ……?」

『あらゆる命を奪う、死の魔法だ。呪いに近いもので、受けたものは徐々に生気を蝕まれていき、最終的に死に至る。だが、安心しろ。私の魔法はお前の命を脅かすすべてを浄化してくれる。私が生きている間は、お前は無事だ』

「やったのはアスタでしょう? これほどまでに強力で、一切の慈悲が無い最低な魔法を使うのは、あいつしかいない」

『間違いない』

「で、あいつは今、どこにいるの? 早く倒さないと、仲間たちが……」

『言っただろう、シーナ。生きているのは私とお前だけだ。お前の仲間も、私の仲間も、みんな死んだ』

「な、なんで!? 外にもたくさん、仲間がいるよ!?」

『死の魔法は、結界の内側にいる、ありとあらゆる生命に滅びを与える。人も、モンスターも、動物も植物も、命あるものすべてに——』

 シーナは城内を駆け、開け放たれた正面玄関から外へ飛び出した。そして、目に映った漆黒の世界に驚愕した。王都〈フレア〉が尋常じゃない量の魔力で形成された、巨大な黒雲に覆われていたのだ。こんなものをアスタ一人で創り出したのだとしたら、生成に必要な魔力量は、自身の許容量をはるかに超えている。天と地ほどの差——圧倒的な力の差を見せつけられたような衝撃を受けた。

「な、なんなの、これ……!」

 崩れた建物が乱立する城下町のあちこちに、人とモンスター死体が転がっているのが見えた。皆、酷い拷問を受けた後のように、苦し気な表情を浮かべていた。庭園に咲いていた花はすべて茶色く変色し、遊歩道に植えられた木々は天辺から根元に向かってボロボロと崩れ散っていく。異常事態に怯え、空へと逃げる鳥たちは、黒雲に触れた瞬間、ヘドロのように液状化し、居住区に血肉の雨が降った。

「ひどい……! どうして、こんな……!」

 怒りを通り越して、シーナは悲しみを覚えた。戦争に関わったものだけでなく、関係のない命まで、アスタは無慈悲に奪ったのだ。目の前に、数枚の羽根を練り込んだ血の塊が音をたてて落ち、それと同時にシーナは、涙の粒をポロポロと落とした。

『初めから、こうする気でいたのだろう』

 いつの間にか隣にいたミルマルカリネが言う。

「こうする気って?」

 シーナは両手で涙を拭った。

「アスタは、初めから王都〈フレア〉を捨てる気で、戦争を始めたっていうの?」

『王都〈フレア〉を覆う雲の正体は、中に入ったものを封じ込めるための、何重にも張り巡らされた魔力の層——つまり結界だ。そして、結界の中にいるもののみを標的とする条件で、死の魔法が死神の如く生命を奪う。結界は中にいるものを閉じ込めるだけでなく、死の魔法が結界の外へ漏れないようにするためのものでもある。すべてが計算されていて、練りに練られた魔法の罠だ。たった一日や二日で用意できるものではない』

 初めから、こうする気だった。自分の生まれ故郷である王都を、アスタは戦争の道具として利用した。勝つためとはいえ、ここまでするなんて、シーナにはアスタの心がまったくもって理解できなかった。

『アスタは何年もかけて、自分専用の〈魔動機〉を仲間たちに作らせていたのだろう。自分の魔力を大量に、長期にわたって保存できる特注の〈魔動機〉をな。完成したら、あとはスイッチを押すだけだ。王都で使えば自分の身にも危険が及ぶので、外から遠隔操作で〈魔動機〉を作動させたのだろう。或いは、捨て駒たちに命じて、国王のために命を捧げよと動かしたのか……』

「なんて、奴だ……!」

 シーナは込み上げる怒りを抑え切れず、アスタがそこにいるかのように怒鳴りつけた。

「お前だけはッ! お前だけは、絶対に許さないッ!」

『人の感情は美しいな』

 ミルマルカリネの呟きがシーナの耳に入った。一瞬、怒りを忘れて考えてしまった。何故、今ここで、このタイミングでそんなことを口にするのか。

『シーナよ。私は、お前のように他のものの死を悼むことができない。同族の死に怒りも感じない。命あるものは、自然の摂理に遵って死ぬだけだ。死にゆく理由が他者のためだろうと、自分のためだろうと、死は死であって、私にとっては当たり前のことなのだ』

「何が言いたいの?」

『私は、すべてのモンスターが自由に生きられる世界を求めていた。それが叶わないと知るや否、独立を求めた。今は亡き、カスタ王と交わした契約によって、私が王として君臨する世界を手に入れた。しかし、そんなものは一時の楽園でしかなかった。人という種がこの世に存在する限り、モンスターが支配する世界など、永遠に訪れることはないのだ。しかし、シーナよ。永遠の楽園を創造できるのも、人という種だけなのだ。モンスターには無いものを持つ人という種だけが、他の種を守り、繁栄させていく手助けができるのだと、私は信じている』

「ミル……」

 シーナはミルマルカリネの話を断片的に理解できた。ミルマルカリネは、人という種が、同族の命運を託すに相応しい生物であると認めている。でも、そのことを何故、今のこの絶体絶命の状況で話すのか、そこだけがわからなかった。

『シーナ。私には悲しみも怒りもない。私とお前を天秤にかけ、私の意思が、お前の方に僅かばかり傾いたが故の決断だ』

「ミルは、何をする気なの?」

『お前を助ける』

「え?」

『アスタも、ここまで計算していたのだろう——いや、それはいい。私は、〈ラディア〉の未来をお前に託す』

 ミルマルカリネは蝶の翅を勢いよく翻し、シーナの頭上へと飛び上がった。

「ミル!?」

 黒雲に触れた鳥がどうなったのか。見ていなかったとしても、ミルマルカリネは肌で感じ取り、結果を予想できるはずだ。しかし、彼女は臆することなく黒雲に接近した。降り注ぐ濃厚な死のエネルギーを受けながらも、彼女の美しい翅は、ヘドロみたく溶け崩れることはなかった。

『シーナよ。お前と話すのは、これで最後だ』

「な、何をいっているの!?」

『さらばだ。友よ……』

 耳栓をされたみたいに、ミルマルカリネの声が聞こえなくなった。何度呼びかけても、彼女はもう、答えてはくれなかった。

 ミルマルカリネは周囲からありったけの魔力をかきあつめ、それに自身の魔力をブレンドさせ、直視できないほどの光を放つエネルギーの塊を生み出した。恐らく、彼女は、生み出したエネルギーの塊をぶつけて黒雲を破壊する気でいるのだろう。シーナがこれまで感じたことの無い、膨大な魔粒子の集合体だった。そんなものをぶつけられて、生き残れる生物はいないだろう。迎撃も防御も不可能な一撃必殺の魔法を、黒雲に向けて放つ気でいるのだ。

 黒雲を破壊できる。そして、結界に穴が開けば、そこから粒子に変えた自身を送り込み、脱出が可能。だが、それができるのはシーナだけだ。何故ならミルマルカリネは、必殺の魔法を放つために、すべての盾を捨て去ってしまっているからだ。

 ミルマルカリネの翅が黒く変色し、炭化した木の葉みたいに散っていく。体のあちこちから液状化した肉が流れ出て、骨が露出している。『お前を助ける』と言ったミルマルカリネの意思を、シーナは今頃になって理解した。理解した瞬間、シーナは泣いた。また、目の前で大事なものを失ってしまう。友達が二度と会えない場所へ行ってしまう。だが、助けようにも、それは自らの命を懸けた彼女の覚悟を踏みにじる行為となってしまうため、自分はただ見守ることしかできない。

「ミル、ありがとう……」

 シーナは感謝を呟くと同時に、誓いを立てた。アスタは、必ず倒す。

 ミルマルカリネが生み出したエネルギーの塊が光速で黒雲にぶつかり、爆発した。死の魔法で脆くなったミルマルカリネの体は、爆発の衝撃で跡形も無く消し飛んだ。黒雲の一部にぽっかりと穴が開き、星々煌めく夜空が覗いた。

 シーナは自身を細かな粒子に変え、確実に目的地に到着するよう、強い意志を込めた。
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登場人物紹介

シーナ。本作のヒロインで、魔法使いの女の子。


モンスターと仲良く暮らせる世界を夢見ている。

アッシュ。マイペースな女性。


悪い奴ではない。

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