第48話

文字数 4,236文字

 暖かい液体の中で俺は目覚めた。

 水でも、お湯でもない。粘り気のある蜂蜜のような液体だ。……と、思考した瞬間、猛烈な息苦しさが俺を襲った。

 俺は全身どっぷり液体に浸かっていた。周囲は完全な暗黒で、両手両足をばたつかせても、何かにぶつかる感触がなかった。

 液体が身体の穴という穴に侵入してくる。頭が正常に働かず、俺は壊れた人形のように液体の中で踊り狂った。

 肺が液体で満たされ、死の臭いが濃くなりかけた——その時だった。

 目の前でライトを点灯されたみたいに、視界がカッとフラッシュした。

「……ッ! ……かッ!?」

 誰かが何か叫んだ。

 俺は死に物狂いで嘔吐し続け、体内から液体を外へ出した。

 また、誰かが何か叫んだが、何を言ったのか聞き取れなかった。俺の身体は、死を回避すること以外に必要のない機能を停止させてしまったのかもしれない。

「はぁ……! はぁ……!」

 肺の中の液体をあらかた出し切ると、俺の身体に少しずつ、消えていた感覚が戻って来た。

 大きく呼吸を繰り返しながら、眼球をゆっくり動かす。どうやらここは、試合が始まる前に俺が待機させられていた部屋と同じ、選手控室のようだった。

 自分が吐いたものでできた水溜まりに両手をつき、立ち上がろうとしたが、胸に激痛が走り、倒れた。

「おいッ! 生きてるかッ!?」

 いきなり目の前に黒いスライムが飛び出した。俺の対戦相手の、〈アーマード・スライム〉のヒュドラだった。装甲を纏うのは試合中だけなのか、今は裸だ。

「お、お前……」

「おおッ! 生きてやがるッ!」

 俺の反応を見て、ヒュドラは嬉しそうに跳ねた。

 コイツがリングにいないということは、試合は終わったのだ。勝敗は、間違いなくヒュドラの勝ちのはずだが、俺は生きている。ここで行われる試合はすべて、対戦者の死で勝敗が決まるものだと思っていたが、今回は違うのだろう。マイルドが、シーナについて何も喋らない俺を痛めつける目的——つまりは、喋りやすくするための拷問目的で、試合のルールを変えていた。そう考えたら、俺が生きていることに納得できる。

「あいつ……。マイルドの野郎は、どこにいるんだ……」

「もう来ると思うぜッ!」

 独り言のつもりだったが、ヒュドラは返答した。

 コイツは俺が逃げないように監視する目的でここに居るのだろうか。

 俺はもう一度、立ち上がろうと頑張ってみたが、無理だった。試合中に受けたヒュドラの攻撃で、自力で立ち上がれないほどのダメージを負っている。どう足掻いても、この状況から逃げ出すのは無理なので、マイルドが来るのを待つしかなさそうだった。

「お待たせ」

 マイルドが目の前に出現した。お得意の転移魔法で移動してきたのだろう。奴は焦った様子で俺に駆け寄ると、膝をついて、両手から光り輝く粒子を放った。

「……匠汰君。立てるかい?」

 マイルドに訊かれ、俺はハッとなった。

 さっきまでと違い、普通に立ち上がることができた。

 胸の痛みは消えたが、謎の液体でぐしょぐしょに濡れた身体はそのままだった。

「今のは、回復魔法か……? お前、今度は何を企んでいやがる!?」

 マイルドは信用できない男だ。このサイコ野郎が、親切で傷を治癒してくれたとは考えられない。

 俺に対する拷問は、まだ終わっていない。むしろ、これからが本番だと考えるのが自然だ。

 恐らくマイルドは、俺を何度も試合に出し、モンスターと戦わせて半殺しにした後、魔法で治癒して、再びリングに戻す。俺の心が折れるまで、何度もモンスターのサンドバッグにする気でいるのだ。

「落ち着いて聞いてくれ」

 これから繰り返されるであろう拷問行為を警戒する俺に、マイルドは宥めるような口調で言う。

「匠汰君は、さっきのヒュドラとの戦いで



「……は?」

「君が生きていることを知っているのは、僕とヒュドラだけだ」

 これは、なんと答えればいいのか……。いや、まったくもって意味がわからない。

「匠汰君は、僕のことをイカレたサイコ野郎だと思っているだろう。確かに、そう思われても仕方がないことを君にしてきた。けれども、これから言うことは、噓偽りない僕の本心から出る言葉だ」

 俺は無言でマイルドの目を見つめた。

「僕は、君の味方だ」

「……嘘だな」

 コイツが俺の味方だと証明する材料が少なすぎる。味方だ、と言われても、すんなり信じられない。

「簡単には信じてくれないだろう。だから、僕が本当に君の味方であるということを証明する」

「どうやって?」

「君を、シーナのもとへ連れて行く」

「本当か!?」

 シーナと聞いて、つい反応してしまった。嘘の可能性の方が高いというのに……。

「本当だ。君を必ずシーナに会わせる。でも、そのためにはまず、ここから君を安全に連れ出す必要がある。死んだはずの人間が堂々と拠点内をうろついていたら大騒ぎになってしまうから、非常時の脱出用に設けられた、地下にある抜け道を使うよ」

 マイルドは俺を手招きした。

 俺は、動き出すことができなかった。どうしても、マイルドのことが信用できないのだ。マイルドの言動全てに裏がある、と不信的な考えばかりが頭に浮かび、言う通りに行動できない。

「匠汰君。警戒する気持ちはわかる。だけど、こうしている間にも、僕たちに危険が迫っているんだ。僕が君を助けたことは、遅かれ早かれ他の誰かに知られる」

「そんなに急いでいるなら、転移魔法でシーナさんのところへ移動させればいいだろう」

「できないんだ」

「どうして?」

「この拠点は結界に守られていて、拠点内での転移は可能だが、拠点内から外への転移はできない。同様に、外から内への転移も不可だ。君をシーナのもとへ転移させるためには、この拠点の外に出ることが必須条件なんだよ」

 そういえば、と俺は思い出す。

 俺を森で保護した時も、マイルドは拠点の外に俺や仲間を転移させていた。

 マイルドの言っていることが本当なら、移動に手間がかかった理由に納得がいく。

「…………」

 俺は迷った。このままここにいても、俺にできることは何も無い。かといって、マイルドとかいう信用できないサイコ野郎の言う通りに行動するのも気が引ける。

「おい、佐藤ッ!」

 俺とマイルドの間に割り込んで来て、ヒュドラが言う。

「さっきは痛めつけて悪かったなッ! 殺す気でやらねえと観客共にバレちまうからよッ! お前を殺す気が無いってことがな、ガハハハッ!」

 このスライムも、マイルドと同様、信用できないモンスターだ。

 見た目だけ、かつての仲間のヒュドラに似ているが、似ているだけの別物だろう。

 無反応の俺に、ヒュドラはかまわず喋り続ける。

「そういやお前、アッシュと一緒に別の世界に行っちまったんだってッ!? シーナの奴、お前が消えたショックでしばらく家に引きこもっていたぜッ!」

「……え?」

 それは、傍で見ていたか、シーナから直接聞かないと知りえない情報だ。

 シーナに関する話をされて、ヒュドラに対する興味が湧いた。

「匠汰君。そろそろ決断を……」

「ちょっと待て。このスライムと話をさせてくれ」

 急かすマイルドの声を遮って、俺はヒュドラに言った。

「他には、何かないか? シーナさんのその後の——」

 いや、その後の話だと、嘘をつかれても俺には判別できない。

 聞くなら過去だ。過去の話なら嘘をつきにくい。

 それに、もしも俺の知っている過去の話をしたら、このスライムが、本物のヒュドラだと確信が持てる。

「お前、俺と初めて出会った場所を覚えているか?」

「シェルチュラの巣だッ! そして俺様は、お前をそこからシンやシーナがいる村まで案内してやったッ! 合ってるかッ!?」

 合っている。俺は頷いた。

「〈バスルーン湿原〉のこと……。覚えているか?」

「懐かしいなッ! あの時、バイルとかいう奴から受けた蹴りは痛かったぜッ!」

 俺は、口を閉じた。

 これ以上、質問することに意味などあるのだろうか。

 十年前の出来事を一つ残らず思い出すのは難しい。俺にとっては一か月程度の出来事だが、ヒュドラにとっては、十年前の出来事だ。人間も、十年経てば頭の中から不要となった過去の記憶が抹消され、或いは、様々な記憶が入り混じって、それが実際にあったことなのか判別できないストーリーになって残る。

 しかし、ヒュドラは俺の質問に〈正解〉を出した。俺の頭の中にある解答用紙に描かれているシーンと合致する答えだった。

 すんなり信じられたなら、俺の中に喜びという感情が生まれただろう。しかし、マイルドから受けた嫌がらせ行為で(仮に、全てが演技だったとしても)傷ついた俺の心は、装甲を身に纏ったかのようにガッチリ防御を固めて、決断力を鈍らせていた。

「おい佐藤ッ! 俺様はなぁ、どうでもいいことはすぐ忘れちまうんだッ! けれどなぁ、お前や、シーナやアッシュと遊んだことは覚えているぜッ! 聞きたいことがあるんなら、全部話してやるぜッ!」

 ヒュドラが大声で言う。

 どんな質問を出しても、ヒュドラの口からは〈正解〉だけが返ってくるような気がした。

 十年経っても忘れないほど、俺やシーナ、アッシュと過ごした思い出は、ヒュドラにとって特別なものなのだという熱い想いも伝わった。

「本当に……。本当に、ヒュドラさんなのですか……?」

 自分の中では既に答えは出ていた。

 このスライムが、俺の知っている友達のヒュドラだということを……。

 それでも俺は、もう一押し、背中を押してもらいたかった。

「おうッ! 俺様はヒュドラだぜッ!」

 元気のある返事を聞き、疑いが確信に変わった。瞬間、俺の目から自然と涙が溢れ出た。

 この世界に来て、ようやく、信頼できる仲間と再会できた。

 正直、俺はずっと独りで心細かった。でも、最初に出会った時と同じように、ヒュドラがまた、俺の前に現れてくれた。

 寂しさが消え、嬉しさが込み上げ、俺は泣いた。

「おいッ! なんで泣くんだッ!?」

「ヒュドラさんが、私のことを覚えてくれていたことが嬉しくて……」

「お前みたいな面白い奴、俺様は忘れねえぜッ!」

「ありがとうございます……」

 俺は涙を拭いて、マイルドの方を向いた。

「お前……お前のことは信用できない。だが、ヒュドラさんは信用できる。俺と一緒に旅をした、仲間だから……」

「おうッ! 俺様と佐藤は友達(ダチ)だぜッ!」

 マイルドは俺とヒュドラを交互に見て、頷いた。

「わかった。僕も、匠汰君と友達(ダチ)になれるよう、努力するよ」
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登場人物紹介

シーナ。本作のヒロインで、魔法使いの女の子。


モンスターと仲良く暮らせる世界を夢見ている。

アッシュ。マイペースな女性。


悪い奴ではない。

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