第91話 別の戦い

文字数 1,313文字

 小学校の担任の松本先生から電話があった。今、星天堂で開かれている水の会の環境保護パネル展に、知り合いの塾の先生がおり、僕のことを頼んできてあるから、一度挨拶に行ってきたほうがいいという。すでに女性議員二名を出している団体であるが、今回の補選の場合、特に問題はない。水の会は坪田さんを推薦しないという噂であったし、すぐに出かけた。
 会場は、星天堂の後ろにある蔵を利用したイベントスペースである。西川という塾の先生は、すぐには分からなかった。会場内には、それらしき年配の男性が幾人もいる。まったく知る人もなく、スタッフと来場者の区別もつかない。どの人に尋ねようかと迷ったが、結局、パネル展を一周してから受付で聞くことに決め、それとなく見て回った。
 もうすぐ見終わるというところで、ふいに声をかけられた。
「倉知さん、来てくれたんやの。ありがとうございます」
 女性に見覚えはなく、返事に詰まった。
「私のこと覚えてない? 選挙のとき、うちの幼稚園で会ったやろ」
 その一言で、話を合わせるきっかけだけはつかめた。香山さんの勤めていた星野川幼稚園の先生だろう。
「その節はお世話になりました。ありがとうございます。今度、補欠選挙に立候補することになりました」
 挨拶をし、名刺を渡した。パネル展のスタッフを務めるこの人は、きっと二人の女性議員どちらかの支持者なのだろう。
「そうかぁ、がんばっての。あの時は、ゆきちゃん一生懸命やったんやよ。他の先生の机の上に、倉知さんの名刺置いて回ったりしての」
 初めて知る事実に、胸が痛んだ。
 控え目な運動の仕方が可愛くもあり、またその思いを叶えられなかったことを改めて認識させられると、忘れていた傷が再び開いてくるような湿った痛みを胸に覚えた。そして、別の人の支持者であるこの先生から、そんな話を聞かされると、彼女の無駄な努力が余計に切なく思われた。
「ゆきちゃん、赤ちゃん生まれたの知ってる? 連絡取ってないの? 彼女、あの後、苦しんだんやよ。結婚まで苦労してのぉ。そうや、今電話してあげようか」
「大丈夫です。今度、また僕から連絡します」
 トートバッグから携帯電話を出そうとする先生を、慌てて止めた。
 深読みのしすぎであるが、苦しんだのは僕が落選したからだと言われている気がした。もし当選していたら状況は違っていたかもしれない。そう責められているようだった。
 頭の奥が熱くなり、胸は重く塞がった。涙をこらえたが、表情は多少陰ったかもしれない。それでも、市議候補として明るく振るまってみせた。西川さんの所在を尋ね、紹介してもらうと、松本先生のことを伝えて挨拶を済ませた。
 家に戻っても、気持ちは沈んだままだった。
 もはや取り返しはつかない。今回当選しても、一度失ったものは取り戻せないのだ。何か別の形で恩を返せると思うのは、ただの自己満足であり、自分の気持ちが救われるだけであろう。
 もう彼女は、この町にいない。それでも今回の結果を、彼女はお母さんから伝え聞くかもしれない。しかし、それが何になると言うのだろう。もう、何も変わらない。あの時とは別の戦いを戦っているのだ。
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