第30話 人の情け

文字数 859文字

「苦しい選挙戦を戦っております」
 車上のスピーカーが訴える。
 身を乗り出して手を振っているために、髪と鉢巻、上半身はずぶ濡れになっている。
「よろしくお願いします」
 傘を差し、小さな子どもを連れて歩いていたおばさんに、車窓から声をかけた。振り向いたその人は、月曜に学歴を評価してくれた人であった。
「もうちょっとやで、がんばっての」
 温かい声援に救われた。たった一言で、すべての苦労や苦痛が報われる気がする。
 学歴については、こんなこともあった。
「候補者、降りて来い!」
 家の窓から顔を出し、男性が叫んだ。あわてて車を降りて駆け寄る。仲間と飲んでいる最中らしくひどく酔っていた。
 窓から手を伸ばし、缶ビールを差し出した。
「これ持ってけ。わしも早稲田やでな。早稲田の者は皆、あんたを応援しているでな」と力強く手を握る。
 しかし、このときの様子が後続の車からは酔っ払いに絡まれているようにしか見えず、冷や冷やしながら見守っていたことを、事務所に戻ってから知った。
 家の窓から、僕の名刺を見せたおばあさんがいた。
「わしの孫も早稲田に行ってるんや」
 窓際で優しく手を握って語りかける。入学試験に向けて一生懸命がんばっていたお孫さんの姿が、今の僕の姿と重なったのかもしれない。早稲田の名に特別な思いがあったのだろう。
 天神町のおじさんの涙や支持者の手の温もりに触れて、僕も段々と熱くなってきていた。雨や霙、雪の中を窓から身を乗り出して手を振っていると、普通の精神状態ではいられなくなるのかもしれない。
 小学校の担任の松本先生の家がある山際の村まで行ったとき、先生は家の前まで出て大きく手を振った。
「まだ頼めるとこあるで、名刺渡してくるでの!」
 その気持ちがありがたくて、「こんな瀬戸際になっても、まだ一生懸命、僕のために運動してくれてるんや」と感極まって、先生の言葉を噛み締めながら泣いた。
 冷たく強い雨が、僕の顔を叩く。一緒に車に乗る人たちに分からないように、声を押し殺し、涙は雨で隠した。
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