第56話 サイレントマジョリティのために

文字数 854文字

 全身に酔いが回った状態で、右手の感覚を確かめるように、僕はそっとグラスをテーブルに置いた。脳の中では、ゆっくりと太い音を立てて、血管が脈を打つ。はじける血流から言葉を拾い出し、順々に考えを整理しながら語り始めた。
「今は議員でもなければ候補者でもない、強いて言えば市民活動家として思っていることを言わせてもらいます…。これまでは選挙に影響する地域や組織の声だけが通って、実際に形になってきたと思います。それでもきっと、なかには冷静に、行政は無駄な公共事業を続けていると思い、そのことに不満を持っている人も少なからずいるはずです。僕は、その人たちの声を聞きたいし、その声が議会に届くようにしたいんです」
 そこまで一気に話し終えると、グラスに残った生ぬるいビールで喉を潤した。
 宇田議員は、脂ぎった頬に深いしわを刻んで、ふてぶてしい顔つきで笑った。
「サイレントマジョリティは思いを口に出さないから、サイレントなんや。現実になるのはラウドマイノリティの声だけや」
 ドスの利いた声には、自信がみなぎっていた。この星野川の土壌に深く染み込み、よどんだ政治の油は、その地質と強固に結びつき、一朝一夕には変わるものではない── そんな確信が、表情からにじみ出ているようだった。
「できるかできないかは、これからの自分の活動の中で示します」
 まだ十分に酔っているようだった。素面なら絶対に言わないようなことを、臆面もなく口にした。酒ではなく、熱くなっている自分に酔っていたのかもしれない。
「注意せなあかんで。星野川市議会の議員全員があんたのことを気にして、これから何をするんか注目しとるでな。まぁ、がんばれや。なんかあったら、わしのとこに相談に来ればいいでな」
 酒と熱に浮かされた頭では、貶したいのか励ましたいのか俄かに判断しかねたが、どうやら応援してくれているようである。
 しかし、言葉に言い表せない微妙な雰囲気の中に、宇田議員が何か言い出そうとして、言い兼ねていることがあるような気がしてならなかった。
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