第88話 落選の予想

文字数 1,050文字

「倉知さんの立候補の話が出てこないから、どうしてるんか心配してたんや」
 女性候補が運動に回っているという噂しか聞こえてこないと、市長は不満そうに話す。これまでの活動の経験が長い分、人のつながりもあり、評判の広がる範囲も大きかったようだ。
「圭子さんは顔広いからな。建築の組合でも青年会議所でもよう知ってるけど、私は個人的に倉知さんを応援してるで、がんばってや」
 市長室のソファに腰を下ろす瞬間、漆黒の革張りが冷たく手に触れた。三階の窓の外には、まもなく初夏を迎えようとする深く濃い青空が広がっていた。市長室の冷涼な空気は、汗ばむ屋外とは別世界の特別な場所であることを静かに物語っていた。
 テーブルの上には、秘書が運んだハーゲンダッツが二つ置かれている。秘書広報課の課長からの差し入れである。
「まずは、何がアピールできるか考えたらいいんや。学歴は倉知さんのほうが上や。早稲田やし、相手は短大や。若さもアピールできる。向こうは五十歳過ぎとるし。ただ分からんのは、女性や言うことや。女性票の風が吹くかもしれんでな。こればっかりはどうなるか分からん」
 鷹揚に構えていた市長が、ゆっくりと身を乗り出した。
「ところでな、市長選のこと何か聞いてないか」
「無投票という噂じゃないですか」
 市長にとって二期目となる今回の選挙は、対立候補もなく無投票当選が予想されていた。ゆったりと座る市長の姿には、不戦勝の余裕が感じられたが、その問いの一瞬、ゆとりの面持ちに焦りの陰が浮かんだ。
「やっぱり、そうなんかな。何か情報入ったら教えてな」
 深々と座りなおすと、再び悠々とした表情を見せた。
「しっかりがんばらなあかんざ。もし負けても、今回でやめたらあかん。何度落ちても出るぐらいじゃないとな。そうするうちに人の気持ちも変わってくるもんや。同情票じゃないけど、最後は星野川の人はやさしいんやで。当選するまでやらんと。負けて星野川から出ていくのは、一生の恥や。どうせやめるんなら勝ってやめねや」
 市長は、僕が落選するかもしれないと思っているようだ。そして、市議の補選よりも、市長選の動向のほうが気になっている様子である。
 建築設計事務所を経営している市長にとって、坪田さんは仕事仲間であり、同じ青年会議所の卒業生でもある。僕に協力すれば、市長選になったとき、坪田さんの支持者の票を失ってしまう。応援していると口では言っても、表立っては何もできないのだろう。とても選挙参謀を紹介してもらえるとは思えなかった。
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