第92話 身近な幸せ

文字数 937文字

 妹の純子が赤ん坊を連れて、実家を訪ねてきた。長女が今年の三月に生まれたばかりで、運動に加わることはできないが、星野川の友達に電話で頼んでいるという。
 これまでの状況を話し、今回の選挙で最後になりそうだと伝えた。真っ白な産着を抱えた純子は、眠る子どもを気遣いながら静かに笑う。純白の羽をまとった天使が、細い腕の中で小さな寝息を立てていた。
「お兄ちゃん、この前うちのマンションに来たとき、『いつか普通の人に戻る日が来るんかな』って言ってたけど、意外に早く来たね」
 そう言って、純子は笑う。
 三月の初め、選挙への出馬を伝えるために、妹のマンションを訪ねた日のことである。その頃はまだ、政治家としての将来を夢見ていた──市議を二、三期務めたあと、県議か市長に立候補するであろう。今、階段を登り始めたばかりである。自分は世の中から求められて出馬するのだ──その自負心を隠すように、自嘲気味に語った一言であった。
 それが今、はっきり気づかされた。自分は必要とされていない。星野川で必要とされているのは、地域代表議員である。選挙の新聞記事に顔写真が並ぶ候補者たちが年配である理由が、今はよく分かる。若くても四十過ぎ。学歴は関係ない。道路や川の整備をお願いするなら、町内に長年暮らしてきた顔馴染みのほうが頼みやすいのだ。
 ごく少数の人だけが地元を意識することなく、若い人に星野川市の将来を託してみようと期待する。地盤もなく、市全体に散らばる浮動票が頼りだ。これは、前回のように噂で左右される票でもある。星野川市の将来を思う僕の理想は、地域の整備という現実に打ち負かされ、いとも簡単に砕け散った。
 純子は得心したような満面の笑みで、抱いていた子どもを僕の腕に預けた。
「はい、おじちゃん。こんにちは」
 静かに眠る赤ん坊は、ずっしりと重かった。
 今こうして、生まれて三ヶ月になる姪を抱いていると、実感として伝わってくるものがある。手を離すと傷つく、儚くもしっかりと存在する命の重みだ。もしこれが我が子であれば、抱いている自分自身の存在をも実感させてくれるにちがいない。もっとも身近な幸せを大事にしたいと思うようになっていた。
 今は、香山さんの最後の言葉が身に染みて分かる。
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