第16話 焼き菓子

文字数 1,764文字

 この甘い匂いは焼き菓子だろうか。とても美味しそうな匂いだった。極貧の村で育ち、十一歳で奴隷の身となったエルは、もちろん焼き菓子などは食べたことがない。ただ、ゴムザの屋敷で娘のセシルが食べていたのを何度も見かけていた。
 
 この甘い匂い。自分も一度は食べてみたいと思っていた。焼き立てはこんなにも甘い匂いがするものなのだとこの時、エルは初めて知ったのだった。

 匂いに誘われて屋台に近づいたエルだったが、その屋台から少しだけ離れた所に二人の子供が立っていることに気がついた。

 五歳ぐらいと思しき男の子が食い入るように屋台を見つめている。隣でその男の子の手を握っているのは、おそらく姉なのだろう。彼らの素振りや漏れ聞こえてくる会話から、八歳ぐらいに見える姉が、しきりに弟を屋台の前から離れさせようとしているようだった。

 エルは無言でこの二人に近づく。やはり二人とも赤い瞳だった。そして、その身なりから彼らが奴隷以外の何者でもないように思えた。

 屋台の店主も妙な奴隷の子供にまとわりつかれたといった様子で、あからさまに嫌な顔をしながら、あっちに行けと追い払うように片手を何度も振っていた。

 姉は一生懸命に弟の手を引っ張っていたが、弟は口を真一文字に結んでその場から動こうとしない。弟の両目には涙が一杯に溜まっていることにエルは気がついた。

 それを見て無理もないとエルは思う。奴隷としてこの二人が日々をどのように暮らしているのか分かるはずもないのだが、どちらにしても幸せとはかけ離れたところで暮らしていることは想像できた。
 ならば五歳ぐらいの子供がお腹を空かせて、いかにも甘そうな匂いがする屋台から動けなくなるのも無理のない話だった。

「もう行こうよ。また遅くなるとカシアス様に叱られるから。ね、行こう……」

 そう言いながら手を引く姉は今にも泣き出しそうな顔をしていた。エルはそんな二人にゆっくりと近づいて行った。

「えっと、あのお菓子が食べたいのかな?」

 エルがそう声をかけると二人とも、びくりと肩を動かした。エルにも経験があることだが、奴隷の身だと他人とは自分が迫害される対象でしかない。だから、こうして他人から声をかけられると怯え、どうしても咄嗟に身構えてしまうのだった。

 エルは子供たちを怯えさせないように笑顔を浮かべてもう一度、口を開いた。

「あのお菓子、食べたいの?」

 魔族であることを如実に表している赤色の瞳。自分たちと同族だと知って、少し警戒感がやわらいだのだろうか。弟がエルの言葉に小さく頷いた。姉の方はまだ警戒心を解いていないようで、口を真一文字に結んでエルの顔を凝視していた。

 「ちょっと待ってて」

 エルは二人にそう言って屋台へと踵を返した。
 屋台の店主は近づいてくるエルの顔を見ると再び迷惑そうな顔をしてみせた。

「ちっ、お前も魔族かよ。あの奴隷、お前の知り合いか? 早くどこかに連れて行ってくれ。あんなのが店の前にずっといられたら、商売になりゃあしねえからよ」

 店主は注文を訊くこともなく、いきなりエルに向かってあからさまな悪態をついた。

「……これを二つ下さい」

 エルは店主の言葉を無視して焼き菓子を指さした。
 
 魔族かよ。吐き捨てるような店主の言葉が頭の中で残り、それに伴ってエルの中で怒りが生まれる。

「あ? 買うのかよ。金は?」

 店主はどこまでも尊大な物言いだった。この国で魔族の扱いはこんなものだった。住む場所も職業も何もかもが制限される最下層の存在。それがこの国における魔族だった。

「……ここに」

 エルは銅貨四枚を差し出した。一瞬、ファブリスとマーサの顔が浮かんだが、でも少しぐらいならいいよねとエルは自身で納得させる。
 店主はそれを引ったくるようにして受け取る。

「ほらよ。早くあの奴隷どもを連れて店の前から消えてくれ。魔族なんかが何人もうろうろしていたら、店の評判が悪くなるだけだ」

 店主の吐き捨てるかのような言葉に返事をすることはなく、商品を受け取るとエルは二人のところへ駆け足で戻った。

「さあ、行こうか。あっちで食べよう!」

 エルが努めて明るくそう言うと弟の顔が瞬く間に輝いた。弟はエルが差し出した手を握ると姉に嬉しそうな顔を向ける。

「お姉ちゃん、行こうよ!」

 そして、弟が明るい声で姉にそう言うのだった。
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