第75話 邪神は思い願う
文字数 3,262文字
「どうした、眠れないのか? 明日は早いぞ。獣人族の隠れ里に向けて発つのだからな」
夜空の星を見上げていたファブリスは、自分の背後に立ったエルに顔を向けることはなく声をかけた。
「そうですね。でも、何だか眠れなくて」
そう言ってエルはファブリスの隣に座り込んだ。隣に座ったエルに視線を向けると、エルはそれまでのファブリスと同じように赤色の瞳を天空の星々に向けている。
僅かな風がエルの赤毛を揺らしていた。
赤毛か。
懐かしいなとファブリスは単純に思う。
「ファブリスさんは何をしていたんですか?」
「同じだ。星を見ていた。そして、殺されたセリア、家族のことを思い出していた」
そう素直に言ってしまった自分にファブリスは少しだけ驚き、そして苦笑した。エルはそんなファブリスには気がつかなかったようで、星空を見続けていた。
「ファブリスさんの復讐は、これで終わったのでしょうか?」
「さあ、どうだろうな。人族と魔族の全てを殺さなければ、俺の復讐は終わらないのかもしれない」
ファブリスがそう言うと、エルは途端に悲しげな顔をファブリスに向けてくる。素直な娘なのだ。改めてファブリスは思う。
「だが、アズラルトを殺したところで、何も変わらなかったな。殺されたセリアや俺の家族が生き返るはずもないし、セリアや家族が殺されたことに俺自身が納得できたわけでもない」
「はい……」
「だから、まだ分からない。分かっているのは、アズラルトを殺してもそうだったということだけだ」
「はい……」
エルは頷いて再び星空に視線を戻した。
「ファブリスさんは、きっと優しいのですね。だから、納得できないのだと思います」
優しいか……。
ファブリスは心の中で呟く。
邪神を相手にして面白い娘だと思う。自分は復讐という名の下でいくつもの命を奪ってきた。決して優しいという言葉で括れるような存在ではないはずだった。
マーサが言うには、ファブリスがマーサと出会った頃とは変わったと言う。マルヴィナも今のファブリスは昔のファブリスのようだと言っていた。
昔の自分がどうだったのか。ファブリス自身ではよく分からない。だが、周囲が変わったの言うのであれば、きっとそうなのだろうとも思う。
そして、変わった要因はやはり、この赤毛の少女なのかとファブリスは思う。あの時、ゴムザと一緒に殺さなかったのは単に気まぐれでしかなかった。マーサが料理番と称してエルを同行させたのも、そこに深い意味などはなかったはずだった。
やはり不思議な少女なのだな。
ファブリスは改めてそう思う。
「エル、お前の中にも邪神の力が……」
ファブリスの言葉と共に、エルは星空からファブリスに視線を移して少しだけ頷いた。
「その力がどういうものなのかは、まだ分かりません。でも、大丈夫です。私は私ですから。ファブリスさんみたいに大きな剣を振り回したりしません」
「そうか……」
エルの言葉にファブリスは苦笑して呟いた。
自分に巻き込まれる形で命を落としたセリア。生まれてくるはずだった子供。そして、家族。
彼らは許してくれるのだろうか。自分が生き残ることに。生き残り、復讐すらも中途半端に終わるかもしれない自分を恨まないのだろうか。
そんな思いがファブリスの中に生まれる。
エルはそんなファブリスを見て、ゆっくりと口を開いた。
「ファブリスさん、大丈夫です。誰もファブリスさんのことを虐めません。邪神であろうとなかろうと。誰かを守り、例え守ることができなかったとしても。誰にもファブリスさんを虐めさせはしません。非難はさせません。今度は私がマーサと皆でファブリスさんを守ります。だから、もう自分を責める必要なんてないんです」
「そうか……」
そうなのだなとファブリスは思う。
セリアたちを守れなかったこと。
これが恨み、そして復讐の根底だったのだなとファブリスは思う。
邪神の力の根源は悲哀。アイシスの言葉がファブリスの中で蘇る。
同時に胸の内でエルの言葉が暖かみをもってくる。
「獣人族の隠れ里に行った後は、どうするつもりですか?」
「さてな。知ってるか、エル? マーサが言うには邪神の力、そいつはこの世の理を変える力らしい。ならば、何かの理を変えるのも面白いかもしれないな」
「何かって何ですか?」
エルがファブリスの言葉に不思議そうな顔をする。
「何だろうな。それをこれから探すさ」
「これからですか?」
エルが面白そうに笑う。揺れる肩に合わせて赤色の髪が宙で揺れている。綺麗な赤色だと再びファブリスは思う。エルの顔とセリアの面影が重なる。
セリアを守ることができなかった自分をセリアは許してくれるのだろうか。
そして、自分は馬鹿だなとファブリスは思う。彼女はそういう人間だった。どうして、そんな単純なことに今まで気づかなかったのか。
セリアは他人を恨むような者ではなかった。
常に何かを許し、助けようとする者だった。
いや、彼女だけではない。殺された家族にしても、残されたファブリスだけに責を押しつけるような者たちではなかった。そんなことは家族だったファブリスが一番分かっているはずだった。分かっていなければならないことだった。
俺は本当に馬鹿だな。
ファブリスは心の中で呟く。
今更、そんなことに気がつくなど……。
「ファブリスさん……泣かないで下さい」
エルが両腕でファブリスをそっと包み込んだ。
いつの間にか、自分でも気がつかない間に涙が頬を伝っていたようだった。
その涙と共に自分の中にあった狂気が流れ落ちていく気がする。
いや、違うのかとファブリスは思い直す。ファブリスの中に存在した狂気は、エルと出会ったあの時から、きっとなくなり始めていたのかもしれない。
「エル、俺はもう二度と俺の傍にいる者を失わない……失いたくはない」
ファブリスは自分の声が掠れて、僅かに震えていることに気がつく。
「はい……」
エルはそんなファブリスの言葉に優しく頷いた。
自分の思いがどこまでこの不思議な魔族の娘に伝わったのだろうか。届いたのだろうかとファブリスは思う。
だが、エルは優しく頷いてくれた。そういう娘なのだとファブリスは思う。
いいだろう。
ファブリスは心から思い願う。
エルだけではない。マーサも、アイシスも、自分の周りにいる人たちを自分が守れるようにと。セリアたちのような悲劇を生み出すことがないようにと。
そして、それができるように自分が理を変えてやる。
エルが魔族は不幸だと言うのであれば、魔族の地位を変えてやる。魔族が奴隷などにならなくてもよい世界にしてやる。
マーサが獣人族は迫害されてしまうと言うのであれば、そんな世界を壊してやる。
マーサが調停者として見守ることが苦痛だと言うのであれば、彼女が見守らなくてもよい世の中を作り出してやる。
自分が理を変え、壊し、作り出し、そして……積み重ねる。
……人はよりよい場所へ行くために色々な物を少しずつ毎日、積み重ねていくのだと私は思うの。
……だから、私は積み重ねるの。誰かのために積み重ねたいの。悲しみや孤独。不安や怒り。様々な理由で、もう自分だけでは積み重ねることができなくなってしまった人のために。積み重ねた物を例え誰かに壊されたとしても、私は何度も何度も諦めないで積み重ねていくの。邪神討伐が終わったら、それをファブリスが手伝ってくれたら嬉しいな。
かつてセリアが微笑みを浮かべながら、ファブリスに語ってくれた言葉。それがファブリスの中で色鮮やかに蘇る。
それをセリアと叶えることはできなかった。
だが、エルたちと彼女らの思いを、自分の思いを、そしてセリアの思いを積み重ねていくことがこれから始まるのかもしれない。
ファブリスの中に間違いなくそこにあったはずの狂気。
その狂気を払拭してしまったのかもしれない赤毛の不思議な少女。
そんな不思議な少女の胸に抱かれながら、それらの思いを積み重ねていけるように邪神は思い願うのだった。
静かにそう思い願うのだった。
夜空の星を見上げていたファブリスは、自分の背後に立ったエルに顔を向けることはなく声をかけた。
「そうですね。でも、何だか眠れなくて」
そう言ってエルはファブリスの隣に座り込んだ。隣に座ったエルに視線を向けると、エルはそれまでのファブリスと同じように赤色の瞳を天空の星々に向けている。
僅かな風がエルの赤毛を揺らしていた。
赤毛か。
懐かしいなとファブリスは単純に思う。
「ファブリスさんは何をしていたんですか?」
「同じだ。星を見ていた。そして、殺されたセリア、家族のことを思い出していた」
そう素直に言ってしまった自分にファブリスは少しだけ驚き、そして苦笑した。エルはそんなファブリスには気がつかなかったようで、星空を見続けていた。
「ファブリスさんの復讐は、これで終わったのでしょうか?」
「さあ、どうだろうな。人族と魔族の全てを殺さなければ、俺の復讐は終わらないのかもしれない」
ファブリスがそう言うと、エルは途端に悲しげな顔をファブリスに向けてくる。素直な娘なのだ。改めてファブリスは思う。
「だが、アズラルトを殺したところで、何も変わらなかったな。殺されたセリアや俺の家族が生き返るはずもないし、セリアや家族が殺されたことに俺自身が納得できたわけでもない」
「はい……」
「だから、まだ分からない。分かっているのは、アズラルトを殺してもそうだったということだけだ」
「はい……」
エルは頷いて再び星空に視線を戻した。
「ファブリスさんは、きっと優しいのですね。だから、納得できないのだと思います」
優しいか……。
ファブリスは心の中で呟く。
邪神を相手にして面白い娘だと思う。自分は復讐という名の下でいくつもの命を奪ってきた。決して優しいという言葉で括れるような存在ではないはずだった。
マーサが言うには、ファブリスがマーサと出会った頃とは変わったと言う。マルヴィナも今のファブリスは昔のファブリスのようだと言っていた。
昔の自分がどうだったのか。ファブリス自身ではよく分からない。だが、周囲が変わったの言うのであれば、きっとそうなのだろうとも思う。
そして、変わった要因はやはり、この赤毛の少女なのかとファブリスは思う。あの時、ゴムザと一緒に殺さなかったのは単に気まぐれでしかなかった。マーサが料理番と称してエルを同行させたのも、そこに深い意味などはなかったはずだった。
やはり不思議な少女なのだな。
ファブリスは改めてそう思う。
「エル、お前の中にも邪神の力が……」
ファブリスの言葉と共に、エルは星空からファブリスに視線を移して少しだけ頷いた。
「その力がどういうものなのかは、まだ分かりません。でも、大丈夫です。私は私ですから。ファブリスさんみたいに大きな剣を振り回したりしません」
「そうか……」
エルの言葉にファブリスは苦笑して呟いた。
自分に巻き込まれる形で命を落としたセリア。生まれてくるはずだった子供。そして、家族。
彼らは許してくれるのだろうか。自分が生き残ることに。生き残り、復讐すらも中途半端に終わるかもしれない自分を恨まないのだろうか。
そんな思いがファブリスの中に生まれる。
エルはそんなファブリスを見て、ゆっくりと口を開いた。
「ファブリスさん、大丈夫です。誰もファブリスさんのことを虐めません。邪神であろうとなかろうと。誰かを守り、例え守ることができなかったとしても。誰にもファブリスさんを虐めさせはしません。非難はさせません。今度は私がマーサと皆でファブリスさんを守ります。だから、もう自分を責める必要なんてないんです」
「そうか……」
そうなのだなとファブリスは思う。
セリアたちを守れなかったこと。
これが恨み、そして復讐の根底だったのだなとファブリスは思う。
邪神の力の根源は悲哀。アイシスの言葉がファブリスの中で蘇る。
同時に胸の内でエルの言葉が暖かみをもってくる。
「獣人族の隠れ里に行った後は、どうするつもりですか?」
「さてな。知ってるか、エル? マーサが言うには邪神の力、そいつはこの世の理を変える力らしい。ならば、何かの理を変えるのも面白いかもしれないな」
「何かって何ですか?」
エルがファブリスの言葉に不思議そうな顔をする。
「何だろうな。それをこれから探すさ」
「これからですか?」
エルが面白そうに笑う。揺れる肩に合わせて赤色の髪が宙で揺れている。綺麗な赤色だと再びファブリスは思う。エルの顔とセリアの面影が重なる。
セリアを守ることができなかった自分をセリアは許してくれるのだろうか。
そして、自分は馬鹿だなとファブリスは思う。彼女はそういう人間だった。どうして、そんな単純なことに今まで気づかなかったのか。
セリアは他人を恨むような者ではなかった。
常に何かを許し、助けようとする者だった。
いや、彼女だけではない。殺された家族にしても、残されたファブリスだけに責を押しつけるような者たちではなかった。そんなことは家族だったファブリスが一番分かっているはずだった。分かっていなければならないことだった。
俺は本当に馬鹿だな。
ファブリスは心の中で呟く。
今更、そんなことに気がつくなど……。
「ファブリスさん……泣かないで下さい」
エルが両腕でファブリスをそっと包み込んだ。
いつの間にか、自分でも気がつかない間に涙が頬を伝っていたようだった。
その涙と共に自分の中にあった狂気が流れ落ちていく気がする。
いや、違うのかとファブリスは思い直す。ファブリスの中に存在した狂気は、エルと出会ったあの時から、きっとなくなり始めていたのかもしれない。
「エル、俺はもう二度と俺の傍にいる者を失わない……失いたくはない」
ファブリスは自分の声が掠れて、僅かに震えていることに気がつく。
「はい……」
エルはそんなファブリスの言葉に優しく頷いた。
自分の思いがどこまでこの不思議な魔族の娘に伝わったのだろうか。届いたのだろうかとファブリスは思う。
だが、エルは優しく頷いてくれた。そういう娘なのだとファブリスは思う。
いいだろう。
ファブリスは心から思い願う。
エルだけではない。マーサも、アイシスも、自分の周りにいる人たちを自分が守れるようにと。セリアたちのような悲劇を生み出すことがないようにと。
そして、それができるように自分が理を変えてやる。
エルが魔族は不幸だと言うのであれば、魔族の地位を変えてやる。魔族が奴隷などにならなくてもよい世界にしてやる。
マーサが獣人族は迫害されてしまうと言うのであれば、そんな世界を壊してやる。
マーサが調停者として見守ることが苦痛だと言うのであれば、彼女が見守らなくてもよい世の中を作り出してやる。
自分が理を変え、壊し、作り出し、そして……積み重ねる。
……人はよりよい場所へ行くために色々な物を少しずつ毎日、積み重ねていくのだと私は思うの。
……だから、私は積み重ねるの。誰かのために積み重ねたいの。悲しみや孤独。不安や怒り。様々な理由で、もう自分だけでは積み重ねることができなくなってしまった人のために。積み重ねた物を例え誰かに壊されたとしても、私は何度も何度も諦めないで積み重ねていくの。邪神討伐が終わったら、それをファブリスが手伝ってくれたら嬉しいな。
かつてセリアが微笑みを浮かべながら、ファブリスに語ってくれた言葉。それがファブリスの中で色鮮やかに蘇る。
それをセリアと叶えることはできなかった。
だが、エルたちと彼女らの思いを、自分の思いを、そしてセリアの思いを積み重ねていくことがこれから始まるのかもしれない。
ファブリスの中に間違いなくそこにあったはずの狂気。
その狂気を払拭してしまったのかもしれない赤毛の不思議な少女。
そんな不思議な少女の胸に抱かれながら、それらの思いを積み重ねていけるように邪神は思い願うのだった。
静かにそう思い願うのだった。