その①
文字数 1,957文字
……ふいに目覚めたとき、青年の思考力は著しく低下していた。
まず自分がどこにいるのかわからなかったし、そもそも自分が何者であるかさえ思い出すことができなかった。
閉じていたまぶたを弱々しく、そしてゆっくりと開くと、青年は眼球だけを動かして周囲を見まわした。
まるで神々が無数の宝石を投げうったかのような満天の星空。
周辺一帯に競うように生え繁る鬱蒼とした樹林の群。
地表を覆うようにうずたかく積もった枯れ葉の絨毯。
それらの風景を視認したとき。青年は今が夜で、ここが奥深い山の中であることは認識できた。
しかし、なぜ自分がこのような時間にこのような場所で、しかも泥と枯れ葉にまみれた姿で横たわっているのかという疑問の答えを思いだすまでには、さらに時間が必要だった。
「そ、そうか、私はここまで逃れてきて……」
しばしの時間を経て、ようやく彼はすべてを思いだすことができた。
自分に迫る容赦のない捕縛の手から逃れるべく、否応なしに山中に逃げこんだこと。
その山中をあてもなく彷徨っているうちに激しい疲労と飢餓の前に力尽き、この場に行き倒れたこと。
そして、自分が何者であるのかということをだ。
名前はカルマン・ベルド。身分は光輝ある諸侯である。
諸侯とはなにか? それは爵位と領地を所有する大貴族の尊称である。
事実、彼の生家たるベルド家は伯爵号と複数の膨大な領地を有し、祖国バスク王国においては「バスク貴族の雄」とまで謳われたほどの名族であった。
その権勢は王族に次ぐもので、彼と彼の一族には市井の民衆からはむろんのこと、同じ貴族からさえも尊敬と羨望と嫉妬の視線が向けられていたほどだ。つい二ヶ月ほど前までは、である。
近過去と遠過去。双方の記憶が脳裏によみがえるにつれ、烈しい怒りと屈辱の念がたちまち沸点を超えて青年の――カルマンの全身を小刻みに震わせた。
「お、おのれぇぇ……ジェラードめぇぇ……!」
激情に震える口と舌を必死に制御して、カルマンは呪詛の響きを含んだうめき声を吐きだした。
そして、底知れない憎悪の念が満身創痍の全身を突きあげたとき、カルマンはさらに重大で深刻な事実を思いだした。
自分が無限の栄光へと続くはずであった階段から転げ落ちた、否、他者によって恣意的に転落させられたという事実をだ。
自分とベルド家を襲った思いもかけぬ悲劇は、つい数ヶ月前に起きた。
同じバスク王国の諸侯にジェラード侯爵という貴族がいて、彼と彼に与する一派がベルド家を破滅に追いやったのだ。
奴らは徒党を組んで謀略の網を何重も張りめぐらせ、あろうことか国王の暗殺未遂という「冤罪」をベルド家に着せることで宮廷から追放したばかりか、国王を焚きつけて国軍を動かし、本家分家をふくめたベルド一族の抹殺まではかったのだ。
釈明むなしく追いつめられた自分たちはもはや実力行使をとらざるをえなくなり、私兵や傭兵を雇い入れて攻めこんできた国軍との一戦にうってでたものの、籠城した居城は圧倒的な兵力を有する国軍の前にわずか三日で陥落。父シャラモンをはじめとする一族の者たちは、女子供にいたるまでことごとく自害し、燃えさかる城と運命をともにした。
自害を拒否して城から脱し、一人生き延びた自分は執拗な追跡と捕縛の手から必死に逃れながら、一方でかねてから亡父の下で働いていた間者を動かし、一族にかけられた嫌疑の真相を調べさせた。
そして身を潜めつつ、人目を避けながら国内各地を逃れ続けること二ヶ月。
少しずつ集めた情報をもとにようやく事件の真相に行き着いたというのに、それを白日の下に晒す間もなく、間者の裏切りと密告とによって潜伏していた隠れ処を憲兵に突き止められてしまった。
幸いにもすんでのところで捕縛の手からは逃れることができたが、憲兵らの追跡は執拗を極めた。
追いつめられ、やむをえず人煙皆無な奥深い山中に逃げこんだものの、彷徨っているうちに寒さと飢えと疲労の前に力尽きたらしく、気づいたときには樹木と樹木の狭間で枯れ葉まみれの姿で行き倒れていたのだ。
そこまでの事実と記憶を思い起こしたとき、カルマンの顔がふいにゆがんだ。
意識を取り戻したとたん、それまで感じずにいられた渇きや痛みがたちまち全身を襲ったのだ。
おそらく骨が折れているのだろう。わずかに身体を動かそうとしただけで、激しい痛みが足や脇腹に走る。
手の指にいたっては身を切るような寒さの前に凍てつき、完全に麻痺してもはや痛覚すらない状態だ。]
いっそ意識を取り戻すことなくそのまま死んでいたら、どれほど楽であったか……。
まず自分がどこにいるのかわからなかったし、そもそも自分が何者であるかさえ思い出すことができなかった。
閉じていたまぶたを弱々しく、そしてゆっくりと開くと、青年は眼球だけを動かして周囲を見まわした。
まるで神々が無数の宝石を投げうったかのような満天の星空。
周辺一帯に競うように生え繁る鬱蒼とした樹林の群。
地表を覆うようにうずたかく積もった枯れ葉の絨毯。
それらの風景を視認したとき。青年は今が夜で、ここが奥深い山の中であることは認識できた。
しかし、なぜ自分がこのような時間にこのような場所で、しかも泥と枯れ葉にまみれた姿で横たわっているのかという疑問の答えを思いだすまでには、さらに時間が必要だった。
「そ、そうか、私はここまで逃れてきて……」
しばしの時間を経て、ようやく彼はすべてを思いだすことができた。
自分に迫る容赦のない捕縛の手から逃れるべく、否応なしに山中に逃げこんだこと。
その山中をあてもなく彷徨っているうちに激しい疲労と飢餓の前に力尽き、この場に行き倒れたこと。
そして、自分が何者であるのかということをだ。
名前はカルマン・ベルド。身分は光輝ある諸侯である。
諸侯とはなにか? それは爵位と領地を所有する大貴族の尊称である。
事実、彼の生家たるベルド家は伯爵号と複数の膨大な領地を有し、祖国バスク王国においては「バスク貴族の雄」とまで謳われたほどの名族であった。
その権勢は王族に次ぐもので、彼と彼の一族には市井の民衆からはむろんのこと、同じ貴族からさえも尊敬と羨望と嫉妬の視線が向けられていたほどだ。つい二ヶ月ほど前までは、である。
近過去と遠過去。双方の記憶が脳裏によみがえるにつれ、烈しい怒りと屈辱の念がたちまち沸点を超えて青年の――カルマンの全身を小刻みに震わせた。
「お、おのれぇぇ……ジェラードめぇぇ……!」
激情に震える口と舌を必死に制御して、カルマンは呪詛の響きを含んだうめき声を吐きだした。
そして、底知れない憎悪の念が満身創痍の全身を突きあげたとき、カルマンはさらに重大で深刻な事実を思いだした。
自分が無限の栄光へと続くはずであった階段から転げ落ちた、否、他者によって恣意的に転落させられたという事実をだ。
自分とベルド家を襲った思いもかけぬ悲劇は、つい数ヶ月前に起きた。
同じバスク王国の諸侯にジェラード侯爵という貴族がいて、彼と彼に与する一派がベルド家を破滅に追いやったのだ。
奴らは徒党を組んで謀略の網を何重も張りめぐらせ、あろうことか国王の暗殺未遂という「冤罪」をベルド家に着せることで宮廷から追放したばかりか、国王を焚きつけて国軍を動かし、本家分家をふくめたベルド一族の抹殺まではかったのだ。
釈明むなしく追いつめられた自分たちはもはや実力行使をとらざるをえなくなり、私兵や傭兵を雇い入れて攻めこんできた国軍との一戦にうってでたものの、籠城した居城は圧倒的な兵力を有する国軍の前にわずか三日で陥落。父シャラモンをはじめとする一族の者たちは、女子供にいたるまでことごとく自害し、燃えさかる城と運命をともにした。
自害を拒否して城から脱し、一人生き延びた自分は執拗な追跡と捕縛の手から必死に逃れながら、一方でかねてから亡父の下で働いていた間者を動かし、一族にかけられた嫌疑の真相を調べさせた。
そして身を潜めつつ、人目を避けながら国内各地を逃れ続けること二ヶ月。
少しずつ集めた情報をもとにようやく事件の真相に行き着いたというのに、それを白日の下に晒す間もなく、間者の裏切りと密告とによって潜伏していた隠れ処を憲兵に突き止められてしまった。
幸いにもすんでのところで捕縛の手からは逃れることができたが、憲兵らの追跡は執拗を極めた。
追いつめられ、やむをえず人煙皆無な奥深い山中に逃げこんだものの、彷徨っているうちに寒さと飢えと疲労の前に力尽きたらしく、気づいたときには樹木と樹木の狭間で枯れ葉まみれの姿で行き倒れていたのだ。
そこまでの事実と記憶を思い起こしたとき、カルマンの顔がふいにゆがんだ。
意識を取り戻したとたん、それまで感じずにいられた渇きや痛みがたちまち全身を襲ったのだ。
おそらく骨が折れているのだろう。わずかに身体を動かそうとしただけで、激しい痛みが足や脇腹に走る。
手の指にいたっては身を切るような寒さの前に凍てつき、完全に麻痺してもはや痛覚すらない状態だ。]
いっそ意識を取り戻すことなくそのまま死んでいたら、どれほど楽であったか……。