その⑨
文字数 2,576文字
「な、なんなの、これは……?」
「屋敷が燃えているのさ」
「屋敷が!?」
おもわず目をみはったシェリルに、キリコはうなずいてみせた。
「そうだ。これは奴らの常套手段で、目撃者も含めていっさいの痕跡を消す。その方法はいろいろあるが、よく使われるのが火をつけて焼失させるこの手口だ。時間的に見て、おそらくはこの部屋に来る前に火をつけたのだろうな」
シェリルの頬を流れ落ちる涙を指先でぬぐい、キリコがさらに語をつなぐ。
「ご家族のことは気の毒だった。俺がもうすこし早く駆けつけていれば助けることができたかもしれない。だけど、今はなにより生きている自分を大切にしろ。君まで死んでしまったら、天国のご家族はきっと悲しむだろうからな」
われながら陳腐な台詞だな、とキリコは内心で自嘲したが、シェリルに平静さを取り戻させる効果はあったようだ。
シェリルは両目をしばたたかせると、今度は自らの指で涙をぬぐい、ゆっくりと立ちあがった。
とり乱し、激情にまかせてキリコを罵倒した自分を恥じいったのか。その表情はわずかに赤らんでいた。
「ご、ごめんなさい。あなたは私をカルマン卿から助けてくれた恩人なのに、酷いことばかり言って……」
温雅な微笑がそれに応えた。
「気にすることはないさ。家族を殺されて平然としていられるほうがおかしいんだ。俺の幼なじみも同じ目にあったから、君の気持ちはよくわかる」
「……幼なじみ?」
「いや、なんでもない。それよりも早く屋敷から出よう。この様子だと、まもなく建物は焼け落ちるぞ」
「そ、そうね……」
シェリルはひとつ息をのんで、広間内を見まわした。
煙の濃度と炎の熱気。ともに烈しい勢いで広間内に増大している。
まるで蒸気のように白煙を噴きださせている天井などは、今にも崩落しそうな気配だ。
いくら堅牢な屋敷とはいえ、この様子では長くはもたない。
そのことはシェリルの目にもあきらかであったが、その前に訊ねておきたいことが彼女にはあった。
「でも、これからどうするの?」
「とりあえず、いったんバスク国教会のルシオン大司教のもとに身をよせ、その後、君をともなってファティマに帰還することになるだろう」
「ファティマですって?」
驚くシェリルに、キリコはその理由を説明した。
「そうだ。このままバスク国内にとどまっていたら、君の身がふたたび危険にさらされる可能性が高い。なにしろ君は、今宵の惨劇の首謀者がカルマン卿であることを知っている重要な生き証人だ。ということは、彼にしてみればとうてい生かしておけないはずで、口封じのために君をふたたび襲うことも十分考えられる。君には教皇庁で今宵のことを証言してもらわなければならないし、保護の意味も含めてファティマに来てもらう」
シェリルの証言をもとに、近日の内にもカルマンは大量殺戮犯としてバスク国内はもとより、すべての教圏諸国に手配されることになる。
教圏世界一億の人々の監視と捜索の目が、その身に注がれることになるのだ。
そのとき、いやがおうにもカルマンの行動は著しく制限され、バスク国王はむろんのこと、もはやシェリルの生命をつけ狙う余裕もなくなるだろう。
むろん、そうなるまでには多少の時間は必要だろうが、それまでの間はファティマで暮らしていればいい。
それがキリコの言うところであった。
「じゃあ、ファティマにいれば安全なの?」
「ああ、絶対に大丈夫だ。領内にはさまざまな破邪退魔の術がほどこされている。《御使い》にかぎらず、その身に〈魔〉を宿した者が足を踏み入れることは絶対にできない。かの地に着いたら、あとはシトレー大司教が面倒を見てくれるはずだ」
邪悪な怪物に生命を狙われている不安と恐怖にくわえ、郷里を離れることへの寂念からか。シェリルの顔が沈痛の色に染まるのを見て、キリコは笑ってみせた。
「心配しなくていい。いずれカルマン卿はかならず俺の手で倒す。あれだけの自尊心の所有者だ。二重三重の屈辱をあたえた俺を放っておくわけはないからな。そう遠くないうちに再戦を挑んでくるだろう。もっとも、次にあらわれたときが彼の命日になるがな」
その時がきたら安心して故郷に戻り、父君の意志を継いで男爵家を継げばいい。
キリコの言葉に、シェリルは納得したように無言でうなずいた。
「さて、そろそろ屋敷から出るとしようか。本格的にやばくなってきたようだしな」
そう言ってキリコがシェリルに背中をむけてしゃがみこんだとき。天井の一角でなにかが砕けるような異音がして、直後、炎と黒煙につつまれた部材が崩落してきた。
さらに別の場所でも鈍い破砕音が連なった直後、やはり焼けた部材が落下し、床の上で砕けて烈しい火の粉を散らした。
天井からごうごうとした炎が噴きだす光景に顔を蒼白にさせたシェリルは、あわててキリコの背中に身体をあずけた。
「よし。しっかりつかまっていろよ」
シェリルを背負って立ちあがると、キリコは小走りで駆けだした。
その足で向かったのは、カルマンが逃走の際に破壊していった大窓である。
てっきり屋敷内の階段を駆け降りていくものと思っていたシェリルは、妙な胸騒ぎを感じつつも無言を保っていたが、それも大窓をくぐりぬけて露台に出るまでだった。
驚愕すべきひとつの可能性が脳裏をよぎったとき。シェリルは表情だけではなく声まで蒼白にしてキリコに問うた。
「ちょ、ちょっと……まさか露台から飛び降りるわけじゃないわよね?」
意味ありげな微笑がそれに応えた。
「そのまさかさ。ここはひとつ、カルマン卿の脱出法にならおうと思ってね」
「――――!?」
目をむいて仰天したシェリルが制止の声をあげるよりも早く、キリコはシェリルを背負ったまま露台から跳躍し、五階建ての宙空を落下していった。
尾をひく悲鳴がそれに連なったのは言うまでもない。
蒸気のような黒煙を噴きあげるジェラード邸が猛火の中に消えていったのは、黄金色の円盤と化した満月が中天にさしかかろうとしていた時分のことだった。