その④
文字数 4,442文字
「現世への烈しい絶望、未練、そして怨恨(うらみ)。それら人としての負の念が〈あの男〉を、いや、亜空をさまよう〈あの男〉の幽魂を召還し、人間を邪悪なる魔人へと生まれ変わらせているのだろうと。憶測の域を超えたものではないとシトレー卿はおっしゃっていたが、あながち的のはずれた推測ではないと私も思う……」
そこでルシオン大司教は、キリコの顔に視線を戻した。
先の発言の意味するところを理解したのだ。
「なるほど、符合するとはそういうことか」
「はい。むろん、自己の人生に絶望し、不満や怨恨を抱えているのはなにもカルマン卿にかぎりません。しかし、彼と彼の一族にまつわる一連の話といい、この国で〈ヴラドの渇き〉が確認された時期といい、自分としては彼が転生者である可能性が高いと思うのです。かの事件以降の彼の末路を考えればなおさらかと……」
「うむ、たしかにな」
ルシオン大司教は重々しく首肯した。
「ベルド家はバスク王国開闢以来の名門として、貴族社会に顕然たる力をもっていた一族だが、あの事件を機にまさかの断絶においやられた。次代の当主として周囲から期待と羨望を一身に浴びていたカルマン卿にしてみれば、無念以外の何者でもなかったであろう。事件を起こしたのは彼の父親であって、彼自身には非がないだけにな」
ルシオン大司教が口を閉じると沈黙がおりかけたが、キリコの問う声がそれを破った。
「そこで猊下にもうひとつお訊きしたいのですが、猊下はジェラード侯爵なる貴族とは親交がおありでしょうか?」
「ジェラード侯爵? うむ、それほど親しいわけではないが、ベルド伯爵同様、王宮での会合などで何度か会うたことがある。貴族の中では教会への寄進も多い。もっとも信仰心によるものというよりは、私の見たところ、周囲への見栄と体裁という色彩のほうが濃いようではあるが……」
ルシオン大司教の声には、隠しきれない皮肉の響きがあった。
大司教自身、教会の建物やこの部屋に見てとれるように質素を美とする性格のため、虚飾と浪費に興じる一部の特権階級の人々に対して、好意的になれないようである。
ふいにルシオン大司教の表情が一変した。
「まさか、ジェラード侯爵までもが今回の一件に関わっているというのか?」
「いえ、猊下。侯爵自身は一連の怪事とは直接は無関係です。ただし……」
「ただし?」
「自分の推測が正しければ、おそらくかの貴族は、近日のうちにも人智を超えた災難に直面するものと思われます。その前に保護したいのです」
キリコがそう言うと、ルシオン大司教の顔で戸惑いの波動がゆれた。
キリコの言葉が意味することが理解できなかったのだ。
むろんキリコとしては、さらに具体的に説明するつもりであった。
「つまり、カルマン卿を転生者と仮定した場合。烈しい憎悪を抱えこんだまま人外の魔人へと生まれ変わった彼が、転生によって手に入れた能力で真っ先になそうとすること。彼の立場となってそれを考えたとき、自分が見出した答えはひとつだけです」
キリコがそこまで言ったとき、ルシオン大司教の表情に完全な理解の閃きが走った。
「そうか、復讐というわけだな、聖キリコ!」
「さようです。かの事件の背景に、ベルド伯爵とジェラード侯爵との貴族社会における暗闘があったことは事実のようです。そうであるならば、カルマン卿が家門を断絶においやった者への復讐心に駆られてもおかしくはありません。この場合、父親の政敵であったジェラード侯爵はむろんですが、一族の討伐を命じたバスク国王も当然、その対象になるものかと……」
キリコの語調はさりげないものであったが、ルシオン大司教の目をぎょっとむかせるには十分なものだった。
「ま、まさか、カルマン卿はバスク国王までも狙っているというのか!?」
大司教の声が底知れない驚愕にひびわれた。
キリコの訪問をうけた今宵、否、あの〈ヴラドの渇き〉を目撃した夜以来、驚愕への耐性は十分にあったはずだが、それでもこれは最大級のものであった。
小さくうなずいてからキリコは語を継いだ。
「先の事件において、ベルド家の討伐を命じたのはバスク国王とか。そうである以上、ジェラード侯爵同様、カルマン卿の復讐の対象にバスク王が含まれていることは考えられることです。たとえそれが理不尽な逆恨みであっても、カルマン卿にしてみれば十分な復讐の理由になるでしょうから」
「うむ、たしかにそなたの申すとおりだ」
内なる動揺を抑えつつ、ルシオン大司教は首肯してみせた。
「人間であることを棄てたカルマン卿に、今さら君臣の理が通じるわけもない。まして一族の討伐を国軍に命じた国王を狙うに、なんの遠慮があろうか」
「そのとおりです。ただ、相手は一国の王。王宮の警備は厳重でしょうし、バスク全土に手配されている現在のカルマン卿では、国都に足を踏み入れるだけでも至難でしょう。ゆえに、いかに《御使い》に転生した身とはいえ、カルマン卿もそうそう手を出すことはかなわないはず。そちらのほうはそれほど懸念する必要はない……」
キリコが口を閉じ、おもわず目をみはったのは、ルシオン大司教がいきなり椅子から立ちあがったからである。
「そ、そうだ。私としたことが……!?」
椅子から立ちあがるなり、「すこし待っていてくれ」との一語を残してルシオン大司教は部屋を飛びだしていった。
ほどなくして部屋に戻ってきたとき、その手には一通の封筒が握られていた。
「これはジェラード侯爵から私宛てに送られてきたものだ。中には舞踏会への招待状が入っている。私は華やかな場は苦手なので多忙を理由に断ったのだが……」
「舞踏会?」
「そうだ。それも普通の舞踏会ではなく、国王夫妻が隣席するものだ。聞けば、国中の貴族や名士が招待された壮大なものらしい。ようするにジェラード侯爵が自身の権勢を見せつけるために開くものなのだが、それはともかく聖キリコよ。もしそなたの推測が正しければ、《御使い》に転生したカルマン卿にとって復讐を遂げる好機なのではないか。なにしろ国王とジェラード侯爵という、彼にとっての仇敵が顔をそろえるのだからな」
「なるほど、たしかに」
キリコは得心したようにうなずいてみせた。
二人の仇敵、とくにバスク国王が警備の厳しい王宮から出るのであれば、復讐心をたぎらせるカルマンにとって行動に出るにこれ以上ない好機であろう。
なにしろ、常に厳重な警備下にある王宮への侵入という危険を犯す必要がなくなるのだ。
だが逆に考えれば、キリコにとって行方のわからないカルマンを見つけだす機会とも言える。
舞踏会場で見張っていれば、探し求める相手が向こうから姿を見せるかもしれないのだから。
「それで猊下。その舞踏会が開かれるのは何時(いつ)なのですか?」
「それが……じつは今宵なのだ」
「今宵!?」
おもわず声を詰まらせたキリコに、大司教がどこか申し訳なさそうにうなずく。
「そうなのだ。この国都から北に向かうこと二百フォートメイルほどの地に、古くから王族の避暑地として使われてきた湖水地方がある。その地にあるジェラード侯爵の別荘が会場だ。この招待状には開始が巳の後刻(午後六時)とあるから、すでに舞踏会は始まっている頃であろう」
「わかりました、猊下」
語尾に重なるようにキリコは椅子から立ちあがった。
その両目に輝く決意の光を見てとって、ルシオン大司教はキリコの意図を察した。
「侯爵の別荘に向かうつもりか、聖キリコ?」
「はい、自分はこれよりその湖水地方に向かいます。カルマン卿への推論も含め、自分の勘違いであれば幸いなのですが、とにかく万が一ということもあります」
国都から湖水地方までは二百フォートメイル。超人的な身体能力を誇る聖武僧でも、到着するまで二刻はかかるであろう。
ましてやすでに舞踏会は始まっている。《御使い》への転生の推論が正しく、ジェラード侯爵への復讐を狙っているという推察が正鵠を得たものであったとしても、現地に到着するまでの間に事態は最悪の結果を迎えている可能性もあり、すべては徒労に終わるかもしれない。
だが、その徒労のために身命を懸けるのが聖武僧の存在意義であることを、ルシオン大司教はむろん承知している。
「わかった。では、これを持っていくがいい。もしかしたら役に立つかもしれない」
そう言ってルシオン大司教は舞踏会の招待状をキリコに手渡すと、さらに自身の名前が刻まれた十字架を首からはずした。
「今宵の舞踏会は国王が臨席するため、屋敷にとどまらず周辺一帯にも侯爵の私兵が厳重な警備をしいているだろう。もし彼らに足止めをされたときは、この十字架と招待状を見せて私の代理者であると説明すれば、兵士たちもむげな対応はとらぬであろう。《御使い》うんぬんの話をしたところで彼らに理解できまいからな」
それどころか、真相を話したどころで妄想症の変人か凶人扱いされて、かえって無用な騒動を生じさせる恐れがある。
それならば自分の名を利用し、ジェラード侯爵への祝言をあずかってきたとでも言えば、すくなくとも警備の兵士たちがキリコの行動を阻害することはないだろう。それがルシオン大司教の意図するところだった。
「お心づかい感謝いたします、猊下。それでは遠慮なく使わせていただきます」
「そうしてくれ。それにしても、すべては杞憂であってくれればよいのだが……」
大司教がため息まじりの声を漏らすと沈黙が訪れかけたが、キリコの声がそれを破った。
「それでは猊下、時間がありませんので自分はこれで失礼させていただきます。いろいろと助力と助言、ありがとうございました」
一礼するなり、キリコは赤毛を波うたせて部屋を飛びだしていった。
ふたたび静けさを取り戻した談話室の中で、ルシオン大司教は一人、黙したままたたずんでいた。
けっして胆力の劣る大司教ではないのだが、キリコによってもたらされたさまざまな想定外の情報に、思考と胸中を整理しきれずにいたのだ。
ダーマ神教の聖職者として僧籍に入り、この年で三十年余り。
神学校の教師などを歴任し、これまで学者肌の司教として教皇庁がもつ「裏の顔」とは無縁な人生を歩んできたが、それも齢五十を超えて、ついに過去形で語られる日が来たことを大司教は悟った。
しばしの間、壁のタペストリーをなぜともなく見つめていたルシオン大司教は、いつまでも惚けている場合でないことに気づくと、王宮に向かうためリンツ司祭の名を呼んだのだった。
そこでルシオン大司教は、キリコの顔に視線を戻した。
先の発言の意味するところを理解したのだ。
「なるほど、符合するとはそういうことか」
「はい。むろん、自己の人生に絶望し、不満や怨恨を抱えているのはなにもカルマン卿にかぎりません。しかし、彼と彼の一族にまつわる一連の話といい、この国で〈ヴラドの渇き〉が確認された時期といい、自分としては彼が転生者である可能性が高いと思うのです。かの事件以降の彼の末路を考えればなおさらかと……」
「うむ、たしかにな」
ルシオン大司教は重々しく首肯した。
「ベルド家はバスク王国開闢以来の名門として、貴族社会に顕然たる力をもっていた一族だが、あの事件を機にまさかの断絶においやられた。次代の当主として周囲から期待と羨望を一身に浴びていたカルマン卿にしてみれば、無念以外の何者でもなかったであろう。事件を起こしたのは彼の父親であって、彼自身には非がないだけにな」
ルシオン大司教が口を閉じると沈黙がおりかけたが、キリコの問う声がそれを破った。
「そこで猊下にもうひとつお訊きしたいのですが、猊下はジェラード侯爵なる貴族とは親交がおありでしょうか?」
「ジェラード侯爵? うむ、それほど親しいわけではないが、ベルド伯爵同様、王宮での会合などで何度か会うたことがある。貴族の中では教会への寄進も多い。もっとも信仰心によるものというよりは、私の見たところ、周囲への見栄と体裁という色彩のほうが濃いようではあるが……」
ルシオン大司教の声には、隠しきれない皮肉の響きがあった。
大司教自身、教会の建物やこの部屋に見てとれるように質素を美とする性格のため、虚飾と浪費に興じる一部の特権階級の人々に対して、好意的になれないようである。
ふいにルシオン大司教の表情が一変した。
「まさか、ジェラード侯爵までもが今回の一件に関わっているというのか?」
「いえ、猊下。侯爵自身は一連の怪事とは直接は無関係です。ただし……」
「ただし?」
「自分の推測が正しければ、おそらくかの貴族は、近日のうちにも人智を超えた災難に直面するものと思われます。その前に保護したいのです」
キリコがそう言うと、ルシオン大司教の顔で戸惑いの波動がゆれた。
キリコの言葉が意味することが理解できなかったのだ。
むろんキリコとしては、さらに具体的に説明するつもりであった。
「つまり、カルマン卿を転生者と仮定した場合。烈しい憎悪を抱えこんだまま人外の魔人へと生まれ変わった彼が、転生によって手に入れた能力で真っ先になそうとすること。彼の立場となってそれを考えたとき、自分が見出した答えはひとつだけです」
キリコがそこまで言ったとき、ルシオン大司教の表情に完全な理解の閃きが走った。
「そうか、復讐というわけだな、聖キリコ!」
「さようです。かの事件の背景に、ベルド伯爵とジェラード侯爵との貴族社会における暗闘があったことは事実のようです。そうであるならば、カルマン卿が家門を断絶においやった者への復讐心に駆られてもおかしくはありません。この場合、父親の政敵であったジェラード侯爵はむろんですが、一族の討伐を命じたバスク国王も当然、その対象になるものかと……」
キリコの語調はさりげないものであったが、ルシオン大司教の目をぎょっとむかせるには十分なものだった。
「ま、まさか、カルマン卿はバスク国王までも狙っているというのか!?」
大司教の声が底知れない驚愕にひびわれた。
キリコの訪問をうけた今宵、否、あの〈ヴラドの渇き〉を目撃した夜以来、驚愕への耐性は十分にあったはずだが、それでもこれは最大級のものであった。
小さくうなずいてからキリコは語を継いだ。
「先の事件において、ベルド家の討伐を命じたのはバスク国王とか。そうである以上、ジェラード侯爵同様、カルマン卿の復讐の対象にバスク王が含まれていることは考えられることです。たとえそれが理不尽な逆恨みであっても、カルマン卿にしてみれば十分な復讐の理由になるでしょうから」
「うむ、たしかにそなたの申すとおりだ」
内なる動揺を抑えつつ、ルシオン大司教は首肯してみせた。
「人間であることを棄てたカルマン卿に、今さら君臣の理が通じるわけもない。まして一族の討伐を国軍に命じた国王を狙うに、なんの遠慮があろうか」
「そのとおりです。ただ、相手は一国の王。王宮の警備は厳重でしょうし、バスク全土に手配されている現在のカルマン卿では、国都に足を踏み入れるだけでも至難でしょう。ゆえに、いかに《御使い》に転生した身とはいえ、カルマン卿もそうそう手を出すことはかなわないはず。そちらのほうはそれほど懸念する必要はない……」
キリコが口を閉じ、おもわず目をみはったのは、ルシオン大司教がいきなり椅子から立ちあがったからである。
「そ、そうだ。私としたことが……!?」
椅子から立ちあがるなり、「すこし待っていてくれ」との一語を残してルシオン大司教は部屋を飛びだしていった。
ほどなくして部屋に戻ってきたとき、その手には一通の封筒が握られていた。
「これはジェラード侯爵から私宛てに送られてきたものだ。中には舞踏会への招待状が入っている。私は華やかな場は苦手なので多忙を理由に断ったのだが……」
「舞踏会?」
「そうだ。それも普通の舞踏会ではなく、国王夫妻が隣席するものだ。聞けば、国中の貴族や名士が招待された壮大なものらしい。ようするにジェラード侯爵が自身の権勢を見せつけるために開くものなのだが、それはともかく聖キリコよ。もしそなたの推測が正しければ、《御使い》に転生したカルマン卿にとって復讐を遂げる好機なのではないか。なにしろ国王とジェラード侯爵という、彼にとっての仇敵が顔をそろえるのだからな」
「なるほど、たしかに」
キリコは得心したようにうなずいてみせた。
二人の仇敵、とくにバスク国王が警備の厳しい王宮から出るのであれば、復讐心をたぎらせるカルマンにとって行動に出るにこれ以上ない好機であろう。
なにしろ、常に厳重な警備下にある王宮への侵入という危険を犯す必要がなくなるのだ。
だが逆に考えれば、キリコにとって行方のわからないカルマンを見つけだす機会とも言える。
舞踏会場で見張っていれば、探し求める相手が向こうから姿を見せるかもしれないのだから。
「それで猊下。その舞踏会が開かれるのは何時(いつ)なのですか?」
「それが……じつは今宵なのだ」
「今宵!?」
おもわず声を詰まらせたキリコに、大司教がどこか申し訳なさそうにうなずく。
「そうなのだ。この国都から北に向かうこと二百フォートメイルほどの地に、古くから王族の避暑地として使われてきた湖水地方がある。その地にあるジェラード侯爵の別荘が会場だ。この招待状には開始が巳の後刻(午後六時)とあるから、すでに舞踏会は始まっている頃であろう」
「わかりました、猊下」
語尾に重なるようにキリコは椅子から立ちあがった。
その両目に輝く決意の光を見てとって、ルシオン大司教はキリコの意図を察した。
「侯爵の別荘に向かうつもりか、聖キリコ?」
「はい、自分はこれよりその湖水地方に向かいます。カルマン卿への推論も含め、自分の勘違いであれば幸いなのですが、とにかく万が一ということもあります」
国都から湖水地方までは二百フォートメイル。超人的な身体能力を誇る聖武僧でも、到着するまで二刻はかかるであろう。
ましてやすでに舞踏会は始まっている。《御使い》への転生の推論が正しく、ジェラード侯爵への復讐を狙っているという推察が正鵠を得たものであったとしても、現地に到着するまでの間に事態は最悪の結果を迎えている可能性もあり、すべては徒労に終わるかもしれない。
だが、その徒労のために身命を懸けるのが聖武僧の存在意義であることを、ルシオン大司教はむろん承知している。
「わかった。では、これを持っていくがいい。もしかしたら役に立つかもしれない」
そう言ってルシオン大司教は舞踏会の招待状をキリコに手渡すと、さらに自身の名前が刻まれた十字架を首からはずした。
「今宵の舞踏会は国王が臨席するため、屋敷にとどまらず周辺一帯にも侯爵の私兵が厳重な警備をしいているだろう。もし彼らに足止めをされたときは、この十字架と招待状を見せて私の代理者であると説明すれば、兵士たちもむげな対応はとらぬであろう。《御使い》うんぬんの話をしたところで彼らに理解できまいからな」
それどころか、真相を話したどころで妄想症の変人か凶人扱いされて、かえって無用な騒動を生じさせる恐れがある。
それならば自分の名を利用し、ジェラード侯爵への祝言をあずかってきたとでも言えば、すくなくとも警備の兵士たちがキリコの行動を阻害することはないだろう。それがルシオン大司教の意図するところだった。
「お心づかい感謝いたします、猊下。それでは遠慮なく使わせていただきます」
「そうしてくれ。それにしても、すべては杞憂であってくれればよいのだが……」
大司教がため息まじりの声を漏らすと沈黙が訪れかけたが、キリコの声がそれを破った。
「それでは猊下、時間がありませんので自分はこれで失礼させていただきます。いろいろと助力と助言、ありがとうございました」
一礼するなり、キリコは赤毛を波うたせて部屋を飛びだしていった。
ふたたび静けさを取り戻した談話室の中で、ルシオン大司教は一人、黙したままたたずんでいた。
けっして胆力の劣る大司教ではないのだが、キリコによってもたらされたさまざまな想定外の情報に、思考と胸中を整理しきれずにいたのだ。
ダーマ神教の聖職者として僧籍に入り、この年で三十年余り。
神学校の教師などを歴任し、これまで学者肌の司教として教皇庁がもつ「裏の顔」とは無縁な人生を歩んできたが、それも齢五十を超えて、ついに過去形で語られる日が来たことを大司教は悟った。
しばしの間、壁のタペストリーをなぜともなく見つめていたルシオン大司教は、いつまでも惚けている場合でないことに気づくと、王宮に向かうためリンツ司祭の名を呼んだのだった。