その③
文字数 3,274文字
気体化した水晶が音もなく地上に降りそそいでいる。
大地に茂る草木は青と緑の生気みなぎる色をたたえ、着実に夏への階段を昇り始めようとする。
透きとおるような碧さをたたえる空には純白の雲が湧きおこり、その形を変えながら太陽の光と風とたわむれる。
初夏の気配が漂いはじめる六月の教圏南方帯の風景は、本来そういうものであった。
だが大小あわせて十三の国々が国境を接する南方帯にあって、その一国たるバスク王国だけはどういうわけか国土全域が連日、薄い鉛色をした冷雨のカーテンと吐く息を白くさせるほどの寒気の中に閉じこめられていた。
周辺の国々から旅行や行商のためにやってきた旅人や隊商の一団が、思いがけない気候に直面して驚いたものである。
近隣の国々はすでに本格的な夏季が到来したような温暖な気候下にあるのだが、バスク王国に入ったとたんにその状況は一変。
空は黒灰色の雲におおわれ、視界は鉛色の雨にさえぎられ、街中を歩く人々は皆、季節はずれの冷気の前に厚手のコートなどを着用しているほどだ。
まるでバスク一国だけが冬に逆戻りしたかのようなその光景に、異国から訪れた人々は不可解さをとおりこして、なにやら不吉めいたものを感じずにはいられなかった……。
†
薄暗い部屋の中で、一人の若者が静かに椅子に座していた。
若者はまだ十代であろうか。
黒い革造りの上着にズボン。さらには黒革造りのブーツという黒革づくめの装いで、その胸もとには首からさげられた銀造りのロザリオが鈍い光をたたえている。
意志の強さのようなものを感じさせる黒い瞳に、形よくととのった眉。
壁に掛けられたランプの灯火に照らされたその容貌は、わずかに幼さが残るもののまず端整といっていい顔だちをしているが、それ以上に印象的なのはその頭である。
ある種の宝石を溶かして染めあげたようなあざやかなその赤毛は、まるで頭の上で燃えているようで、明るさに欠ける室内でもはっきりとわかるほどだ。
そこは質素な造りの部屋であった。
樫の木造りの椅子がふたつと、やはり樫の木で造られた丸いテーブルがひとつあるだけで、他に装飾品や調度品の類はない。
壁のランプも長年使いこまれた、錆びまみれの代物である。
部屋の壁には数枚のタペストリーが掛けられてはいるが、そのタペストリーにしても教皇庁の紋章を織りこんだもので、装飾性よりもむしろ信仰性のほうが色濃く出ているものだ。
赤毛の若者が座っている椅子にしても緩衝材もついていない粗末な代物であるが、若者はまったく気にしていないようである。
バスク第一教会。その中にある談話室の一部屋が今、若者がいる部屋だった。
教皇庁によって教圏諸国の各都市、各町村に設けられた教会の群は、たんにその一帯に住む人々のための礼拝や儀式をおこなう宗教施設というだけの存在ではない。
いわばそれは教皇庁の大使館であり領事館であり、ダーマ教皇の意志と勅命を担当教区の人々に伝達し、または逆に教区内の情報を集めて教皇庁に伝達するという、相互連絡網としての重要な役割を担っている。
それだけに、地方の町や村にある教会ならともかく一国を管轄する第一教会ともなると、その代表司教は教皇庁の幹部司教に匹敵する要人で、必然的に多忙をきわめる身であり、約束をとりつけていない急な面会などできるはずもなかった。
当初、教会に足を運んだ赤毛の若者がルシオン大司教との面会の取り次ぎを頼んだとき、教会の衛兵ににべもなく断られたのは当然のことであろう。
その当然のことがくつがえったのは、教皇庁の紋章が刻まれた銀造りのペンダントを披露し、自分がシトレー大司教の使者であることを若者が伝えたときである。
シトレー大司教は教皇庁を代表する高位司教の一人であるから、教会の人間であれば知らぬ者はいない。
まして若者が披露した銀のペンダントには、その言葉を証明するようにシトレー大司教の名前が刻まれてある。
身分を証明するものとして、シトレー大司教が若者に持たせたものだった。
事情を察した衛兵はあわてて教会の中に消えていき、しばらくしてふたたび若者の前に姿を見せたとき、衛兵は一人ではなかった。
ともにあらわれたリンツ司祭がうやうやしい挨拶のあとに、若者を教会の中に招き入れたのである。
通された談話室で待つことしばし。赤毛の若者はふいに椅子から立ちあがった。
蝶番の鈍い響きとともに部屋の扉が開き、そこから銀髪をもつ祭服姿の人物――ルシオン大司教があらわれたのだ。
「いや、待たせてすまなかった、聖キリコ。なにぶん、明日までに私自身が決裁しなければならない職務が山積していてな」
慌てて駆けつけてきたのだろう。
額に浮きでた汗をぬぐいつつ、ルシオン大司教は若者に椅子に座るようにすすめ、自らも腰をおろしてすぐに話を切りだした。
「それで聖キリコよ。私のもとを訪ねてきたのは、先の〈ヴラドの渇き〉に関する調査において、なにかしらの成果を得たということか?」
そうルシオン大司教に問われた赤毛の若者――キリコは小さくうなずいた。
「はい。じつはその件で、猊下にお訊きしたいことがあるのです」
「ほう、それは?」
「猊下はカルマン・ベルドなる貴族のことをご存じですか?」
「……カルマン・ベルド?」
ルシオン大司教が微妙な角度に眉を動かしたのは、キリコが口にした人名に記憶がないからではなく、逆に大司教自身、よく知った名であったからだ。
「うむ、もちろん知っておる。今、この国でかの御仁の名を知らぬ者は、生まれたての赤子くらいなものであろうからな」
「それでは、かの人物とは面識もおありで?」
「いや、私自身はカルマン卿とは直接の面識はない。父君のシャラモン・ベルド伯爵には何度か王宮で会うたことがあるがな。あまり信仰や敬虔という言葉とは縁のなさそうな御仁だったのを憶えておる。おそらく息子のほうも似たようなものであろう」
そこで思考と表情が一変し、ルシオン大司教は目をみはった。
「まさか、そのカルマン卿が今度の一件に関わっているのか?」
「現時点では確たる証拠はありません。ですが、自分はそう見ています。すなわち〈ヴラドの渇き〉が確認されたあの日、カルマン・ベルドなる貴族が《御使い》として転生したのではないかと」
「なんと……!?」
驚きのあまり、ルシオン大司教はつい発すべき声を失ってしまった。
まさか《御使い》に転生した者が、自分の知己の範囲にいるとは予想すらしていなかったからだ。
ひとつにはカルマン・ベルドなる青年貴族が、現在のバスク国内では知らない者がいないほどの「有名人」であったこともある。
なにしろ彼の一族が引き起こしたある事件のおかげで、バスク王国は全土が混乱におちいり、一時は事態収拾のために教皇庁が「介入」する動きを見せたほどだった。
ルシオン大司教はひとつの疑問にいたり、キリコに質した。
「それにしても聖キリコよ。カルマン卿が転生者かもしれないという、その推察の根拠はなんなのだ?」
「彼の人生とその末路が符合するのです、猊下」
「符合する?」
キリコが小さくうなずくと、燃えるような赤毛がゆるやかに波をうった。
「そうです。それまで普通に生きていた普通の人間が、ある日突然、人外の
「うむ。それなら以前、私もシトレー卿より伺ったことがある」
ルシオン大司教はいったん言葉をきり、脳裏の奥深くにしまいこんであった記憶に思考をめぐらすと、噛みしめるように語をつないだ。