その⑥
文字数 2,061文字
「逃げろ、シェリル!」
フランツの最期の言葉が、今もシェリルの内耳で反響していた。
まるで耳もとで叫ばれているかのようにはっきりと、そして何度となく……。
屋敷には舞踏会用のものとは別に、会合や集会用に造られた大規模な広間がいくつかある。
そのひとつが、屋敷の五階にある【白薔薇の間】である。シェリルは今、その広間にいた。
否、潜んでいたというべきか。
絹のクロスが掛けられたテーブルの下で息を殺し、膝を抱えた姿で身体の奥底からこみあがってくる恐怖に細い身体を震わせていたのだ。
どうやってこの部屋にまできて、このテーブルの下に隠れたのか。当のシェリルにはまるで記憶がなかった。
逃げまどう貴族たちの群に呑みこまれ、なかば連れ出されるように広間から逃げだしたものの、屋敷内のいたる所にジェラード侯爵の私兵は待ちかまえていた。
一緒に逃げだした貴族が一人また一人と、兵士たちの凶刃の餌食となっていく中、シェリルは無我夢中で屋敷の中を逃げまわり、気づいたときにはこの広間のこのテーブルの下で、一人心身を震わせていたのだ。
一瞬、シェリルの身体がびくっと動いた。
それまで静寂を保っていた室内に異音を感じとったのだ。
金属がこすれるような鈍い音。それが蝶番の摩擦音であることに気づき、シェリルはおもわず息をのんだ。
露台に通じる大窓が開閉されたことを即座に察したのだ。
それも風などによるものでない。誰かが屋外から侵入してきたのだ。
その証拠に、コツコツという床を蹴る靴の音が聞こえてくる。
しかもその音は、徐々に大きくなっていた。こちらに近づいてきているのだ。
「こ、こないで……お願い……」
胸の内で必死に念じるシェリルの手には、一本の果物ナイフが握られていた。
それをいつ手にしたのか、シェリルにはまるで記憶がなかった。
おそらく舞踏会場から脱した際にでも、偶然その手につかんだのであろう。
もしものときは、せめて名誉ある諸侯の娘らしく、これで一矢をむくいてから死のう。
胸の内でそう覚悟をきめると、シェリルは震える手を必死に制御し、ナイフを力強く握りしめた。
靴音が消えたのはまさにそのときだった。
止まったのだ。それもこのテーブルの前で!
やがてテーブルクロスがゆっくりめくりあげられていくと、もはやこれまでと観念したシェリルは胸の前ですばやく十字を切り、短く神への祈りの言葉をつぶやくとテーブルの下から飛びだした。
「か、覚悟しなさい、この化け物っ!!」
絶叫とともにナイフを前方に突きだした、その直後――。
「待った! 俺は敵じゃない!」
鋭い語気の、だが生気にみちた声がシェリルの聴覚を刺激した。
その声は、底知れぬ恐怖になかば錯乱状態だったシェリルにいくぶん正気を取り戻させた。
両目を見開き、顔をあげてシェリルは正面を見すえた。
視線の先にいたのは甲冑姿の兵士ではなく、一見して自分と同世代とわかる顔だちをした若者だった。
黒革の上着に黒革のズボン。さらには黒革のブーツという全身黒革ずくめの装い。
胸もとで鈍く光る銀造りの十字架が、その黒一色の装いにさりげないアクセントをもたらしている。
若者の名をキリコといい、ある密命を帯びてこの屋敷に駆けつけ、さらには邸内にまで忍びこんできたというそのあたりの事情を、むろんシェリルは知るよしもない。
知りえたのは、目の前の若者がみごとな赤毛の所有者ということだ。
まるで頭の上で燃えているかのようなその赤い頭髪は、薄闇につつまれた室内でもはっきりとわかるほどだ。
おもわず見とれてしまったシェリルであったが、すぐにはっとわれに返ると、もつれかける舌を必死に制御して誰何の声を向けた。
「あ、あなたは誰なの?」
そう訊ねたシェリルは、ナイフを身がまえたままである。
よくよく考えてみれば、この赤毛の若者も十分に怪しい。
見たところ舞踏会の客ではないようだし、かといって屋敷の使用人にも見えない。
そもそも五階にある大窓から邸内に忍びこんでくることじたい、不審のきわみ。「あの男」の仲間でない確証はどこにもない。
そんなシェリルの心情を知ってか知らずか、キリコは微笑をたたえて素性をあかした。
「俺はキリコ。よろしく」
明朗快活とは、まさにこの口調であろう。
その声は、シェリルから警戒と不審の念を払拭するには十分な効果を発揮したようで、シェリルなどはおもわず「いえ、こちらこそ」と、お辞儀をしかけたほどだ。
一方、キリコは微笑をおさめるとくるりと踵を返し、広間内に置かれた他のテーブルの中をひとつひとつ覗いてまわった。
その様子をシェリルが無言で見つめていると、やがてすべてのテーブルを確認しおえたキリコが声を投げてきた。
フランツの最期の言葉が、今もシェリルの内耳で反響していた。
まるで耳もとで叫ばれているかのようにはっきりと、そして何度となく……。
屋敷には舞踏会用のものとは別に、会合や集会用に造られた大規模な広間がいくつかある。
そのひとつが、屋敷の五階にある【白薔薇の間】である。シェリルは今、その広間にいた。
否、潜んでいたというべきか。
絹のクロスが掛けられたテーブルの下で息を殺し、膝を抱えた姿で身体の奥底からこみあがってくる恐怖に細い身体を震わせていたのだ。
どうやってこの部屋にまできて、このテーブルの下に隠れたのか。当のシェリルにはまるで記憶がなかった。
逃げまどう貴族たちの群に呑みこまれ、なかば連れ出されるように広間から逃げだしたものの、屋敷内のいたる所にジェラード侯爵の私兵は待ちかまえていた。
一緒に逃げだした貴族が一人また一人と、兵士たちの凶刃の餌食となっていく中、シェリルは無我夢中で屋敷の中を逃げまわり、気づいたときにはこの広間のこのテーブルの下で、一人心身を震わせていたのだ。
一瞬、シェリルの身体がびくっと動いた。
それまで静寂を保っていた室内に異音を感じとったのだ。
金属がこすれるような鈍い音。それが蝶番の摩擦音であることに気づき、シェリルはおもわず息をのんだ。
露台に通じる大窓が開閉されたことを即座に察したのだ。
それも風などによるものでない。誰かが屋外から侵入してきたのだ。
その証拠に、コツコツという床を蹴る靴の音が聞こえてくる。
しかもその音は、徐々に大きくなっていた。こちらに近づいてきているのだ。
「こ、こないで……お願い……」
胸の内で必死に念じるシェリルの手には、一本の果物ナイフが握られていた。
それをいつ手にしたのか、シェリルにはまるで記憶がなかった。
おそらく舞踏会場から脱した際にでも、偶然その手につかんだのであろう。
もしものときは、せめて名誉ある諸侯の娘らしく、これで一矢をむくいてから死のう。
胸の内でそう覚悟をきめると、シェリルは震える手を必死に制御し、ナイフを力強く握りしめた。
靴音が消えたのはまさにそのときだった。
止まったのだ。それもこのテーブルの前で!
やがてテーブルクロスがゆっくりめくりあげられていくと、もはやこれまでと観念したシェリルは胸の前ですばやく十字を切り、短く神への祈りの言葉をつぶやくとテーブルの下から飛びだした。
「か、覚悟しなさい、この化け物っ!!」
絶叫とともにナイフを前方に突きだした、その直後――。
「待った! 俺は敵じゃない!」
鋭い語気の、だが生気にみちた声がシェリルの聴覚を刺激した。
その声は、底知れぬ恐怖になかば錯乱状態だったシェリルにいくぶん正気を取り戻させた。
両目を見開き、顔をあげてシェリルは正面を見すえた。
視線の先にいたのは甲冑姿の兵士ではなく、一見して自分と同世代とわかる顔だちをした若者だった。
黒革の上着に黒革のズボン。さらには黒革のブーツという全身黒革ずくめの装い。
胸もとで鈍く光る銀造りの十字架が、その黒一色の装いにさりげないアクセントをもたらしている。
若者の名をキリコといい、ある密命を帯びてこの屋敷に駆けつけ、さらには邸内にまで忍びこんできたというそのあたりの事情を、むろんシェリルは知るよしもない。
知りえたのは、目の前の若者がみごとな赤毛の所有者ということだ。
まるで頭の上で燃えているかのようなその赤い頭髪は、薄闇につつまれた室内でもはっきりとわかるほどだ。
おもわず見とれてしまったシェリルであったが、すぐにはっとわれに返ると、もつれかける舌を必死に制御して誰何の声を向けた。
「あ、あなたは誰なの?」
そう訊ねたシェリルは、ナイフを身がまえたままである。
よくよく考えてみれば、この赤毛の若者も十分に怪しい。
見たところ舞踏会の客ではないようだし、かといって屋敷の使用人にも見えない。
そもそも五階にある大窓から邸内に忍びこんでくることじたい、不審のきわみ。「あの男」の仲間でない確証はどこにもない。
そんなシェリルの心情を知ってか知らずか、キリコは微笑をたたえて素性をあかした。
「俺はキリコ。よろしく」
明朗快活とは、まさにこの口調であろう。
その声は、シェリルから警戒と不審の念を払拭するには十分な効果を発揮したようで、シェリルなどはおもわず「いえ、こちらこそ」と、お辞儀をしかけたほどだ。
一方、キリコは微笑をおさめるとくるりと踵を返し、広間内に置かれた他のテーブルの中をひとつひとつ覗いてまわった。
その様子をシェリルが無言で見つめていると、やがてすべてのテーブルを確認しおえたキリコが声を投げてきた。