その⑦
文字数 5,476文字
……一連の光景を、シェリルは広間のひと隅から声もなく見つめていた。
この世に生をうけて十七年。
貴族の娘として、否、普通の人間として、およそ「常識の世界」で生きてきたシェリルにしてみれば、目の前で繰りひろげられている人間と異形の怪物との戦いを理解し、かつ容認することは「常識の世界」で養われた彼女の「固定観念」が許さなかったらしい。
その場に立ちつくしたまま、どことなくぼんやりとしているのは、あまりの非現実的な光景に思考が麻痺してしまったからであろう。
それでも広間の一角に生ずる燦とした輝き――発光に包まれたキリコの姿を視界にとらえたとき。
シェリルは自己を回復させ、当然すぎる疑問を漏らした。
「な、なにあれ? キリコさんが光っている……!?」
その声は虫の飛音ほどに低い独語であったが、どうやらキリコの鼓膜には届いたらしい。
口もとに微笑をたたえながらシェリルに向き直った。
「これは聖光態(オーラモード)だ」
「聖光態(オーラモード)?」
「そう。われら聖武僧は体内の聖光を増幅させることで、短時間ではあるが自己の戦闘力を数倍化させることができる。だからこそ、ああいう芸当もできるのさ」
キリコとシェリルは視線を転じ、「ああいう芸当」の実例を見すえた。
その視線の先では、崩落した天井や壁の部材に半身を埋もらせたカルマンが、壁にもたれるように座りこんでいた。
怪異な巨体は粉塵によって薄灰色に染めあがり、微動だにしないその姿は見た目だけなら屍のようにも見えたが、絶命していないのはむろん、意識もあることは遠目にもシェリルにはわかった。
にもかかわらず、動こうとしない理由まではさすがにわからない。
先刻までのカルマンであれば激情の叫びをとどろかせて、猛然と立ちあがってくるはずなのだが……。
「動かないわよ?」
ダメージによるものだとシェリルは推察したのだが、キリコの見解はちがった。
「おそらく胸の内で自問でもしているのだろう」
「自問?」
「ああ。非情な現実に直面してね」
キリコの観察は、ふたつながら的中していた。
粉塵と瓦礫の中に半身を埋もれさせながら、カルマンはあえぐような独語をくりかえし漏らしていた。
それはまさにキリコが指摘したように、「非情な現実」に対する「自問」のうめきだった。
「……こ、こんなことが……ありえぬ……ありえるわけが……」
それは声というにはあまりに低く、言葉としては不明瞭であり、シェリルにはむろんキリコの鼓膜にも届くものではなかった。
不死の肉体をもつ超越者。
超常の力をもつ究極の生物。
空が朱色に染まったあの夜。追われて逃げこんだ山中の奥深くで、寒さと飢えと負傷で息絶える寸前にあった自分の前に突如として出現し、この魔体をあたえてくれた【彼】はたしかにそう言った。
ましてや今の自分は超魔態と化した身。
惰弱な人間の一人や二人、殺すことなど羽虫をつぶすごとき容易なことのはず。
ところが現実には、打ちのめされ、たたきのめされ、口から血へどと苦悶のうめきを漏らしているのは自分のほうではないか……。
「残念だが、これが現実というものだ、カルマン卿」
ふいに聴覚を刺激したその冷然とした声に、カルマンは両の丸眼をわずかに動かして正面を見すえた。
その先に見たキリコの身体に例の発光はすでになく、元の姿を取り戻していたが、それよりもカルマンの注意を奪ったのは自身に向けられたキリコの表情だった。
冷厳とした声音とは異なりその表情には、あきらかな哀れがる色調があった。
そのことに気づいたとき。それまで屍蝋のように白く濁っていた蛇眼が、にわかに強く光って針を含んだ。
カルマンの中に生じた微妙な変化にキリコは気づいたが、あえて気づかぬ態をよそおって語をつないだ。
「不死の肉体と思いきや、そのじつ不死身にあらず。超常の生物と思いきや、そのじつ無敵にあらず。人間であることを棄ててまで手に入れた魔体の、それが真実だよ、カルマン卿」
カルマンは応えない。
黄褐色に光る眼をわずかに動かしただけで、押し黙ったままキリコを見すえている。
だが外見とは逆にその体内では、底知れない激情の炎が静かに燃えさかっていることにキリコは気づいたが、かまわずに語を継いだ。
「だが謀略によって一族もろとも破滅においやられ、その復讐心に駆られて人間であることを棄てたあなたに同情すべき余地がないわけではない。だから……」
キリコの声がふいに消えた。否、かき消されたのだ。
突然、宙空高く吹き飛んだ瓦礫の上昇音と、それに続く落下音によって。
人間のものとも獣のものとも異なる、激情に狂った亜種の咆哮によって。
キリコは両目をすっと細め、シェリルは逆に大きくみはった。
二者二様の視線が投げつけられた先には、魔神像のごとく屹立する蛇頭の怪物の姿があった。
キリコに向けられている蛇眼には先ほどまでの屍蝋の色はもはやなく、それどころか高熱を帯びた石炭さながらに灼熱していた。
キリコ自身は知らぬことだが、哀れみの言葉を口にしたことは見えざる刃となってカルマンの矜恃と自尊心を切り裂いた。
光輝ある諸侯とあろう者が、はるか目下の平民などから哀れみをうけることなど絶対にあってはならない。
選民意識ともいうべきその琴線を容赦なく「鷲掴み」にされたとき。カルマンの理性は一瞬で蒸発し、怪異な巨体は憎悪の塊となって床を駆った。
「私に同情するだと!? 小役人ふぜいがほざくものよな。貴様のような坊主くずれごときに哀れみをうける、このカルマン・ベルドではないわっ!!」
吠えたけり、床を踏みならしてカルマンが突進してくる。
まさに巨像の突進を想起させる迫力と猛烈さ。
小山のような巨体が一歩駆るごとに広間の床が上下にたわみ、シェリルなどは身体を軽く振られたほどだ。
「今度こそ貴様の肉体、その不遜な口ごとわが鋼爪で斬りきざんでくれるわっ!」
「愚かな……」
細めていた両目を見開くと、キリコはすっと左腕を水平にかざした。
うっすらとした黄金色の光をその腕先に視認したとき、蛇頭の魔人は哄笑をとどろかせた。
「バカめ、もう忘れたのか! 貴様の妖術などもはや通用せぬわっ!」
床を駆りつつ、カルマンは両腕を胸の前ですばやく交叉させた。
それはまさに先刻、キリコの聖光砲を退けた防御姿勢だった。
受け止め、はじき返し、逃げる間もあたえずに間合いを詰め、今度こそキリコの身体を縦横に斬り裂く。
このときカルマンの脳裏では、そこまでの計算がたてられていた。
それゆえカルマンは気づいていなかった。
自分に向けられているキリコの手が広げた状態ではなく、手刀の形をつくっていたことに。
その微妙な手の形の違いがなにを意味するのか。この直後、カルマンは身をもって知ることとなる。
「聖光剣(オーラソード)!」
発声とほぼ同瞬、水平にかざされたキリコの手刀から光がほとばしった。
だが音もなく放出されたのは光の砲弾ではなく、薄い帯状の閃光だった。
広間の宙空を一直線に伸びていった閃光は、突進してきたカルマンの交叉した腕に直撃した瞬間、まず手首を切断し、さらに肩口から腕そのものも断つと、そのまま後方にある広間の壁にまで達し、強固なはずの隔壁をまるで薄紙のように斬り裂いた。
……一瞬、自分の身になにが起きたのか。カルマンには理解できなかった。
宙空を伸びてきた閃光が、自分の体躯を「通過」していくような感覚だけは感じとれたが、それだけだった。
そんなカルマンがわが身に生じた異変を認識できたのは、肩口から噴きだす大量の鮮血と、足下に広がる血沼に沈んだ、切断された自分の手首と片腕を視認したときである。
やがて経験したことのない痛みがその身を襲ったとき。すべてを悟った蛇頭の魔人は血沼の中に膝から崩れ落ち、咆哮のような悲鳴を口角から噴きあげた。
血沼の中で奇怪な悲鳴をあげるカルマンの姿を、キリコは無言で見つめていた。
異形の巨腕を音もなく切断した光の刃は、いまだその腕先で黄金色の余韻を放っている。
やがてうめき声を押し殺しながら立ちあがってきたカルマンに、キリコは静かな一語をはなった。
「いかに鋼の鱗でおおわれていようとも、岩石をも斬り裂く聖光剣の前では薄紙も同然。聖光砲とは異なり、この光の刃を防ぐ術はない……」
キリコは口を閉じ、ゆっくりとした動作で薄い光につつまれた手をふたたびカルマンにさしむけた。
なにをする気なのかは明白すぎるほどだった。
「幕だ、カルマン卿。その魔体にわずかでも人間としての心が残っているのなら、その蛇頭が宙空に飛ぶまでの間、自分が犯した大罪を懺悔するがいい!」
「グゥゥ……!」
気圧されたようにカルマンはうめいた。
その声調は怒りや憎悪のものではなく、まさしく焦燥と畏怖によるものだった。
防御不能の光の刃というキリコの言葉が、大言でないことを察したのである。
もはやこれまでか。避けようのない死がカルマンの脳裏をよぎったそのとき。わずかに動いた片方の蛇眼が、足下に広がる血沼の中にそれをとらえた。
キリコの聖光剣によって切断された自身の片腕。
血沼の中にそれを視認したとき、カルマンは奇怪な顔に奇怪な笑みを浮かべてキリコに視線を転じた。
「キリコとかいったな、小僧。この決着は後日にあずけてやる。この腕の代償は、いずれかならず払わせてやるぞ。覚悟しておくがいい」
薄い苦笑がそれに応えた。
「あいにくだが、カルマン卿。あなたの命日を今日から先に一日たりとも延ばすわけにはいかないのだ。名族であった者らしく覚悟をきめて……」
一瞬、キリコはふいに身がまえた。
カルマンがすばやい動きで、血沼の中から断たれた片腕を拾いあげたのだ。
なんのつもりだ? 不可解なカルマンの行動に、警戒と困惑の色がキリコの顔に広がったまさにそのとき。
カルマンは手にする片腕を振りあげると、勢いそのままにキリコめがけて投げ放ってきた。
意外な、だが悪あがきとしか思えないカルマンの行動に困惑したのも一瞬、うなりをあげて飛んできた巨腕を、当然ながらキリコは軽くしゃがみこんでかわしよけた。
標的をとらえそこなった巨腕はむなしい噴血をまきちらしながら、そのまま後方の宙空へと飛んでいった。
すっと立ちあがったキリコが薄く笑う。
「ふっ、悪あがきを……」
だが、冷笑が口もとをかざったのも束の間。キリコはひとつの可能性に思いいたり、あわてて背後を振り返った。
回転しながら宙空を飛ぶ巨腕の行く手にキリコが見たのは、天井から吊りおろされたクリスタル・シャンデリアと、そのほぼ真下に立つシェリルの姿だった。
カルマンの標的が自分ではなくシェリルであったことを察し、たちまちキリコの表情が凍てついた。
「し、しまった!?」
キリコが声をひび割らせたのとほぼ同時。回転飛行を続けていた巨腕がクリスタル・シャンデリアと天井とをつなぐ鉄鎖を直撃した。
その瞬間、強固なはずの鉄鎖はまるで絹糸のもろさで次々と断ち切られ、浮力を失ったクリスタル・シャンデリアは、ガラスの擦過音を響かせながら垂直に落下していった。
とっさのことに思考が麻痺したのか。
自分めがけて落ちかかるシャンデリアの巨影を、シェリルは惚けたように見つめている。
かわり行動にでたのはキリコだ。
「聖光態!」
叫び声に続いて、キリコの身体がふたたび黄金色の光につつまれた。
跳ぶように床を駆ったのはほぼ同時のことだ。
まさに尾を引く流星のような姿で喪心したように立ちつくすシェリルのもとに一瞬でたどりついたキリコは、その身体を抱きかかえるとさらに床を蹴って跳躍した。
もつれあいながら床の上を二転三転する二人の後方では、一瞬前までのシェリルの立ち位置にシャンデリアが落下してきた。
聞く者の心を総毛立たせるような異音がとどろき、ガラス片が飛び散り、無数の金属片が床にするどく突きたった。
シャンデリアの落下をうけた床面は無惨な形状に窪まり、その衝撃の凄まじさがうかがえた。
直撃をうけていれば、とうてい生命はなかったであろう。
別種の衝撃音が生じたのは直後のことである。カルマンが露台へと通じる大窓に頭から突進したのだ。
はなばなしい音をたてて大窓の隔壁は砕け散り、飛散したガラス片が月光を乱反射させて、一瞬、一帯は光の迷宮と化した。
露台に飛び出た蛇頭の魔人は、無数のガラス片を体躯に付着させたまま露台から飛び降り、五階建ての宙空を落下。
ほどなく真下にある中庭に地響きをたてて着地すると、そのまま地面を踏みならしながら敷地外へと飛びだし、怪異な姿を周囲の森の中に消していった……。