その⑥
文字数 1,656文字
すでに夜も深く、建物内には宿直の司祭や警備の衛兵がわずかにいるだけで、人の気配はほとんどない。
すくなくとも、二人がいる四階に余人の存在は皆無のはずであった。
だがこのとき。廊下を並んで歩くグレアム枢機卿とシトレー大司教は、自分たちの後方を音をたてず、気配を押し殺しながらついてくる何者かの存在に気づいていた。
気づいてはいたが、二人はあえて気づかぬ態をよそおいそのまま歩を進めた。
一階また一階と階段を降り、シトレー大司教が隣を歩くグレアム枢機卿に質問を向けたのは建物の一階に降りいたったときである。
「それにしても猊下。なにゆえ【あの男】のもとに足をお運びになろうと思われたので?」
「うむ、ひとつ気がかりなことがあってな」
「と、申されますと?」
「シトレー卿、卿も気づいているはずだ。この世に《御使い》を出現させるあの【ヴラドの渇き】の発生率が、年々高まっていることに。会議では誰もその事実にふれようとはしないがな」
「は……」
「われら教皇庁の千年にもわたる研究をもってしても、いまだ【ヴラドの渇き】がいかなる要因が働いて生じ、いかなる人間がいかなる状況で《御使い》として転生するのか、まだまだ不明な点が多い。だが解明しつつものもある」
「御意。過去の調査において《御使い》に転生した者の多くが、その理由はさまざまではありますが、ともかく生きることに絶望をおぼえ、それを端として神への信仰が薄れ、断ちきった者が多く見うけられます。むろん、すべての者がそうではありませぬが」
「だが、信仰心の薄れや揺らぎといったものが、あの人外の魔人どもをこの世に生みだす要因のひとつとなっているのはまちがいない。すなわちそれは、地上における神の代理人たるわれら教皇庁の不徳が招いたともいえることだ」
グレアム枢機卿は口を閉じ、神経を後方に向けた。
あいかわらず音もなく尾行を続ける何者かの気配が感じられる。
まるでその者に聞かせたいかのように、グレアム枢機卿はわずかに声の調子を高めた。
「ダーマ神の啓示をうけたヨブ・ファティマと、彼の意志を継ぎ、この地に彼の名を冠した聖地を築いた先人たちがめざした理想の世界とは……」
枢機卿の口は、機械じかけのような正確さで開閉をくりかえした。
「ゆるぎない信仰心によって統べられた世界だ。神を信じ、人を慈しみ、教義に従い、使徒としての善行を積み、敬虔な神の下僕としての生を全うする人々によって築かれている世界だ。その世界こそが、地上に悪魔をはびこらせる隙をあたえず、ひいては〈あの男〉を封印に縛りつけておく聖なる鉄鎖となるのだ。だが現実はというと、かならずしもそうではない」
枢機卿の語調がにわかに厳しさを増し、双眸からは鋭い光がほとばしった。
「私が僧籍に入った五十年前であればとうてい考えられぬほど、現在の教圏世界における人民の信仰心はゆらいでおる。それにともない、われら教皇庁の権威にも翳りが見られる。これまでこの地上を統べていた唯一絶対の理に、ほころびが生じつつあるのだ」
それまでグレアム枢機卿の話を黙して聞いていたシトレー大司教は、やがてためらいがちに口を開いた。
「しかしながら猊下。ごく細部を見れば、たしかに人心に薄れやゆらぎなどは見えましょうが、教圏世界全体を見まわしたとき、いまだダーマ神教とわれら教皇庁の権威は保たれているように私には思われます。それほど憂慮すべき水準にまで達しているとは思えぬのですが」
「そう、たしかに卿の言うとおり、それは憂慮すべきほどのものではないのかもしれない。だが、蟻の一穴がときとして堅牢な堤防を崩壊させることもある。亀裂やゆがみは軽度のうちに修復をすませるべきであり、災いの芽は小さなうちに摘んでおくべきなのだ」
そこでグレアム枢機卿は足を止め、肩ごしに後方に声を投げた。
「と、私などは思うのだが、卿の考えるところは如何、フェレンツ卿?」