その②
文字数 2,080文字
「それとも貴卿には、他に適任者の心あたりでもおるのかな?」
「もちろんです、猊下」
恐縮したのも束の間、たちどころに表情に余裕を取り戻したバーハイデン大司教は、声に自信と期待をこめて一人の人物の名を口にした。
「現在、ガルフース王国には聖ミハイロフがおります。かの者であれば実力と実績、なにより経歴において一任するに申しぶんのない人物かと存じますが」
背教者の血縁者とは比較になりませぬ。暗に、否、あきらかに声にそう自信と皮肉をこめるバーハイデン大司教であったが、感銘をうけた者は一人としていなかった。
それどころか「しらけた」空気が座をおおったほどだ。その理由はふたつある。
ひとつは名を挙げられた聖ミハイロフが、バーハイデン大司教の息のかかった聖武僧の一人であること。
もうひとつはその聖ミハイロフを擁ようして今度の一件を解決し、次の枢機卿の座をめぐる争いでほかの候補者ライバル――とくにシトレー大司教――よりも優位に立とうともくろんでいること。
そういったさまざまな打算と思惑が、誰の目にも透すけて見えたからだ。
バーハイデン大司教の意気ごんだ表情とは逆にしらけた調子で場は沈黙したが、それもごく短時間のことだった。
見えざるカーテンのように広がった静寂を破るかのように、乾いた笑い声が室内に流れでたのだ。
列席者の視線が向けられた先にいたのは貴公子然とした洗練された風貌と、薄暗い室内でもそれとわかるほどあざやかな黄金色の頭髪をもつ青年だった。
名をフェレンツといい、年齢は一同の中では群をぬいて若いまだ三十三歳である。
千年の歴史を数える教皇庁にあって過去にわずか二十人しか存在しないという、三十代で大司教に就任した人物として内外に知られている。
「フェレンツ卿。なにがおかしいのか?」
三つ隣の席で嘲笑にも似た笑い声を漏らすフェレンツ大司教に気づき、バーハイデン大司教はその秀麗な顔を鋭く睨みつけた。
笑われることが彼はなにより嫌いだった。
まして笑い声の主は、階位は同じとはいえ自分より年少者である。その両目から不快の光が漏れたのは当然のことであろう。
「いや、これは失礼した、バーハイデン卿」
軽く頭をさげてフェレンツ大司教は謝罪したが、その声に誠意の響きはほとんど含まれていなかった。
その証拠に、詫びを口にしたのも束の間。フェレンツ大司教は皮肉っぽい微笑をたたえながら次のように語をつないだのだ。
「ただ、貴卿が今、口にされたガルフース王国といえば、教圏北西部にある国ですな?」
「そのとおりだが、それがなにか?」
「いかに超人的な身体能力をほこる聖武僧といえど、北のガルフースから南のバスクまではゆうに十日はかかりましょう。事態ことは急を要していると枢機卿猊下はおっしゃられた。にもかかわらず、そのような遠方の地にいる者を推挙するとは、失礼ながらバーハイデン卿は、いささか危機感にとぼしいのではありませんか?」
「そ、それは……!?」
バーハイデン大司教は返答に窮し、おもわず声を詰まらせた。
その唇はもごもごと動いてはいたが、声らしきものはなにも聞こえてこない。
それも当然で、フェレンツ大司教の指摘はまさしく正鵠せいこくを得たものであり、わずかな反駁はんばくも許すものではなかったからだ。
功績をたてることと同僚をだしぬくことばかりに気がまわり、《御使い》への対応においてもっとも肝心な部分――時間との戦いという点――にまるで思いがいたらなかった自身のうかつさに気づき、バーハイデン大司教は青ざめた態で黙りこんでしまった。
そんな同僚に対し、他の大司教の間からはかすかな失笑が漏れ聞こえてくる。
「それでは決をとろう」
座に漏れでた笑声を消すかのように発せられたグレアム枢機卿の声は、けっして大きなものではなかったが、部下たちの注意を引きつけるには十分なものであった。
列席者全員の視線と意識がバーハイデン大司教から自身に向けられたのをみはからい、グレアム枢機卿は可否かひを問うた。
「バスク王国への聖キリコの派遣に、賛同する者は挙手を」
異議なし、という低い声とともに、大司教たちは次々と手をあげた。
不承不承の態で最後に手をあげたのは、むろんバーハイデン大司教である。
すべての大司教が賛同したことを確認し、グレアム枢機卿は小さくうなずいた。
「よろしい。では、バスク王国への聖キリコの派遣を正式に認める。シトレー卿にはかの者への連絡を一任したい。よろしいか?」
「はっ、承知いたしました」
シトレー大司教が一礼で応えると、グレアム枢機卿はすっと片手をあげた。
会議の終了と退室をうながす合図である。
枢機卿の意をうけて、十二人の大司教たちはいっせいに立ちあがった。
床を踏む足音に連なるように燭台の灯火が次々と消えていくと、やがて室内から司教たちの気配は完全に失われた……。