その②
文字数 1,451文字
力のない息を小さく吐きだすとカルマンはふたたび眼球だけを動かして、枯れ葉にまみれた自分の身体に視線を走らせた。
身に着けている衣服はコートにしろズボンにしろ、もはや服とは呼べない代物で、もともとの色が何であったかすらわからないほど汚れ、破れ、ところどころに血がにじんで朱色の染みをつくっていた。
辺土の農民、いや、街中にいる物乞いですらもうすこしまともな物を着ているだろうに、これがバスク貴族の雄とまで呼ばれた権門出の人間の姿だとは。
かつて自分に色目をつかっていた宮廷の貴婦人たちが見たらなんと思うことか……。
そんな自虐めいた思いが脳裏をよぎると、カルマンは唐突に笑いだした。
それは力感も声量もない、まさに乾ききった自嘲の笑いであった。
笑うことで現状の自分を忘れようとしているかのようにも見えたが、しかし、その笑いはごく短時間のうちに消え、一転して今度は憤怒の表情がそれにとってかわった。
大きく見開かれた両目からは深刻な憎悪の血光がほとばしり、わずかに遅れて口からは怨嗟と激情の咆哮が噴きだした。
「の、呪ってやる……呪ってやるぞ、ジェラードォォッ! たとえこの身が朽ちはてようとも、貴様と貴様の一族が煉獄の業火に焼かれるその日が来るまで、冥府の底から呪い続けてやるぞぉぉーっ!」
雷鳴のような語尾がやまびことなって反響するのを耳にしながら、しばしカルマンは視線の先に広がる星空を黙して見つめていたが、やがて薄い笑いがその面上に浮かんだ。
「フッ、しょせんは負け犬の遠吠えか。もはや虚もなく実もなく、ただ人知れず朽ちはてていくのみ。哀れ身の極致というべきだな……」
自嘲というよりはどこか達観したような独語を漏らすと、カルマンはゆっくりと目を閉じた。たちまち意識が薄れていく。
おそらく次に意識を失えば、もう二度と目を開くことはないであろう。
そのことをカルマンは自覚していたが、不思議と恐怖を感じることはなかった。
達観とも諦めとも異なる別種の思いがカルマンの胸中を満たし、自らの「死」を無意識のうちに受け容れていたのだ。
やがて意識が薄まっていくにつれ、それまでわが身を襲っていた渇きや苦痛も徐々に感じられなくなってきた。
迫りきた自らの最期を感じとったカルマンの目尻から一粒の涙がこぼれ落ちた、まさにそのとき――。
(カルマン!)
一瞬、何者かがカルマンの名を呼んだ。
それはごく低い声であったが、雷鳴のごとくカルマンの聴覚をしたたかに刺激した。
否、最初はそう感じたカルマンであったが、すぐにそうではないことに気づいた。
その声は耳にではなく、直接彼の脳裏に響いてきたのだ。
その事実に気づき、驚愕のあまり消えつつあったカルマンの自我が再覚醒する。
(だ、誰だ、誰が私を呼ぶ……!?)
心の中で問い返したカルマンに、それに呼応する声がふたたび彼の脳裏に響いてきた。
(目を開けよ、カルマン。わが眷属に選ばれし呪怨の貴公子よ!)
意味のわからぬその一語に、カルマンは閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
そして焦点の定まらない眼で上空を見やったとき、一瞬、カルマンは驚愕のあまり息をのんだ。
それも当然であろう。見あげる先にある夜空が、どういうわけか赤く染まっていたのだ。
夕焼けとも異なるどこか濁った血を思わせる赤黒い奇怪な空が、カルマンの視線の先に広がっていたのである。