その①
文字数 957文字
満月が放つ硬質の光が音もなく地上に降りそそいで、青い紗のカーテンで屋敷をつつみこんでいるようだった。
この地方特有の夜気が、青みがかった薄闇の中を風に乗って露台に吹いていた。
初夏とは思えぬほど肌寒い夜である。
これなら酔いも早くひきそうね。すやすやとした寝息をたてる息子を抱きかかえながらエリゼは胸の中でつぶやいた。
ランフォード男爵夫人であるエリゼは、この年四十歳になる。
黒く輝く瞳と濡れたような黒髪と象牙色の肌は、娘のシェリルに確実に受け継がれている。
貴族とは名ばかりの寒門の生まれゆえか、特権層の人間としてはまれに見る美質の所有者で、諸侯の令夫人となった今も偉ぶるところはなく、善良で温雅なその為人は屋敷の使用人や領民からも慕われていた。
エリゼはあらためて腕の中の長男ルチアの顔をのぞきこんだ。
露台に出るまでは真っ赤になっていたその顔も、季節はずれの冷たい夜気にあたったせいか、ずいぶんと赤らみはおさまってきている。
安堵の息を漏らしたエリゼが、ふと大窓越しに広間の中に視線を転じたとき。その広間内でなにやら右往左往している貴族たちの姿が見えた。エリゼが小首をかしげる。
「なにかの余興かしら。ずいぶんと騒がしそうだけれど……」
貴族たちがなにやら騒いでいるのは見てとれたが、厚いガラスと樫の木で造られた大窓がもつ遮音効果の前に、室内からの音はほとんど聞こえてこない。
不審に思ったエリゼが中の様子をうかがおうと大窓の取っ手に手をかけようとしたとき、腕の中のルチアが声を発した。目を覚ましたのだ。
「あら、ルチア。起きたの?」
「う、う~ん……」
という声は、まだ酔っている様子だった。エリゼが苦笑する。
「本当に困った子ね。まちがってお酒を飲むなんて」
「えへへ、ごめんなさい」
ばつが悪そうにルチアは謝ったが、言葉ほどその顔に悪びれた様子はない。
「まあ、いいわ。もうすこし顔の赤らみがひいたら中に入りましょうね」
「うん、わかった」
屈託のない笑みを浮かべる息子を、エリゼはやさしく抱きしめた。
背後の闇から音もなく近づく人ならざる気配に、二人はまったく気づいていなかった……。