その⑤
文字数 2,296文字
ほんの数刻前まで栄華と権勢にあふれていたジェラード侯爵の屋敷は、いまや流血と殺戮とが支配する煉獄と化していた。
その光景はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
蝋人形を思わせる無表情のまま殺戮に狂奔するジェラード侯爵の私兵と、その凶刃の餌食となっていく貴族たちの姿をカルマンは無言で眺めていた。
恍惚としたその表情は、まるで華麗な歌劇でも鑑賞しているかのようであった。
そのカルマンがわずかに視線を動かした。
数にして十人ほどの貴族たちが立ちはだかる兵士たちの間隙をついて、扉のひとつから広間の外へ逃げだしていったのだ。
その集団にシェリルという名の少女が含まれていたことなど、むろんカルマンは知るよしもない。
「ふん、無駄なあがきを。この屋敷からは絶対に逃げられぬというのに……」
冷笑をたたえつつカルマンが視線を戻すと、その先でジェラード侯爵が自失を絵に描いた姿で場に立ちつくしていた。
それも当然であろう。
広間内で無慈悲きわまる殺戮に狂奔しているのは、皆、今宵の舞踏会のために呼び集めた侯爵の部下たちなのだから……。
「こ、これはいったい、なんとしたことか……!?」
痙攣したような動きを見せる唇はそう言っているようにも思われたが、声らしきものはなにも聞こえてこない。
そんなジェラード侯爵の背中に、カルマンの興がった笑声がはじけた。
「どうしました、侯爵。いつになったら私を殺すのですか? もっとも、あなたがまぬけ面で惚けている間にも、頼りの部下たちは主人を見かぎったようですがね」
冷ややかなその一語にジェラード侯爵ははっとして振り返り、そして絶句した。
自分の周囲に、いるべきはずの護衛の兵士の姿がただの一人もいなかったのだ。
あわてて周囲を見まわしたとき、ジェラード侯爵は視線の先に彼らを見つけた。
主人の護衛を放棄し、さらにわれ先にと広間から逃げだそうと狂奔し、さらにさらに同じ私兵同士で斬りあう部下たちの姿を。
「ど、どこにいく、貴様ら。私の命令がきけぬのかっ!?」
声を震わせてジェラード侯爵は叫んだが、狂乱の渦と化した今の広間内にあってはその声もかき消され、兵士たちに聞こえるはずもなかった。
もっとも、声が届いたところで戻ってくる者は皆無であったろうが。
さすがにそのことを悟ったのであろう。
ジェラード侯爵は閉口すると、崩れおちるようにして床の上にへたりこんだ。
石像のように座りこんだ侯爵の背中に、またしてもカルマンの冷ややかな声音がはじけた。
「哀れなものだな、ジェラード。舞踏会という華やかな舞台で妻女には先だたれ、部下には見捨てられる。醜悪な貴様の最期にふさわしいではないか、んん?」
「…………!!」
冷然きわまる嘲弄が鼓膜を刺激した瞬間、ジェラード侯爵の中で「なにか」が爆ぜた。
赫怒、焦燥、屈辱、そして絶望――。
それら「負の念」が渾然一体となって恐怖心を凌駕したとき、ジェラード侯爵は魂の底から激発した。
そうでなければ、おそらく侯爵は聞きとがめたであろう。「妻女には先立たれ」というカルマンの発した言葉を。
「お、おのれぇぇ……この死にぞこないがぁ!!」
激情の声ともにジェラード侯爵は立ちあがり、カルマンめがけて床を駆けだした。
憤怒の態で床を駆る侯爵の手には、いつしか長剣が握られていた。
警備の兵士が逃げる際に落としていったもので、ジェラード侯爵はその剣を奇声もろともカルマンの肩口に打ちこんでいったのだ。
こと武芸というものに侯爵はまったく通じていなかったが、それでもその一撃はカルマンの肩を裂いた。
視野を翳らせるほどの鮮血が裂かれた肩口から噴きだし、一瞬にして宙空に朱色の紗を織りあげた。
「ど、どうだ、思い知ったかっ!」
刃と柄を介して伝わってきたたしかな手応えに、ジェラード侯爵の顔に会心の表情が浮かんだ。しかし――。
「バカめ!」
カルマンの口もとに冷笑がさざ波のようにゆらめいた瞬間、すばやく振りあげられた腕がジェラード侯爵に向けて一閃した。
垂直に振りおろされたカルマンの手刀は、ジェラード候爵の右肩に直撃した直後、肉を裂き、骨を砕き、侯爵の右腕をたちまち肩口から切断した。
口角からは絶叫を、肩口からは噴血をそれぞれ宙空に放出しながら、ジェラード侯爵はもんどりうって床に倒れこんだ。
悲鳴をあげてのたうちまわるたびに肩口から噴きだす血が床に沼をつくり、その血沼の中を流れるような歩調でカルマンが近づいてくる。
肩にくいこんだ剣を無造作に抜きとり、それをほうり投げるとカルマンは足を止め、血にまみれた姿で悶絶するジェラード侯爵を見おろした。
完全な勝者のみが放つことができる愉悦の光が、その双眸にはあった。
「そろそろ終幕にしようか、ジェラード。わが父シャラモンが貴様の来るのを冥府で待っているのでな」
「……た、助けてくれ、カルマン卿。た、頼む……!」
消え入りそうな助命懇願の声に応えたのは、酷薄を絵に描いた微笑だった。
「ジェラード家の当主とあろう者が情けない命乞いなどしてくれるな。貴様とわが父シャラモンは、王立学院でともに学んだ学友同士と聞く。その友誼に免じ、せめて苦しまずに地獄へ送ってやろう」
カルマンの血に濡れた手が、ゆっくりとジェラード侯爵の顔に伸びていった……。
その光景はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
蝋人形を思わせる無表情のまま殺戮に狂奔するジェラード侯爵の私兵と、その凶刃の餌食となっていく貴族たちの姿をカルマンは無言で眺めていた。
恍惚としたその表情は、まるで華麗な歌劇でも鑑賞しているかのようであった。
そのカルマンがわずかに視線を動かした。
数にして十人ほどの貴族たちが立ちはだかる兵士たちの間隙をついて、扉のひとつから広間の外へ逃げだしていったのだ。
その集団にシェリルという名の少女が含まれていたことなど、むろんカルマンは知るよしもない。
「ふん、無駄なあがきを。この屋敷からは絶対に逃げられぬというのに……」
冷笑をたたえつつカルマンが視線を戻すと、その先でジェラード侯爵が自失を絵に描いた姿で場に立ちつくしていた。
それも当然であろう。
広間内で無慈悲きわまる殺戮に狂奔しているのは、皆、今宵の舞踏会のために呼び集めた侯爵の部下たちなのだから……。
「こ、これはいったい、なんとしたことか……!?」
痙攣したような動きを見せる唇はそう言っているようにも思われたが、声らしきものはなにも聞こえてこない。
そんなジェラード侯爵の背中に、カルマンの興がった笑声がはじけた。
「どうしました、侯爵。いつになったら私を殺すのですか? もっとも、あなたがまぬけ面で惚けている間にも、頼りの部下たちは主人を見かぎったようですがね」
冷ややかなその一語にジェラード侯爵ははっとして振り返り、そして絶句した。
自分の周囲に、いるべきはずの護衛の兵士の姿がただの一人もいなかったのだ。
あわてて周囲を見まわしたとき、ジェラード侯爵は視線の先に彼らを見つけた。
主人の護衛を放棄し、さらにわれ先にと広間から逃げだそうと狂奔し、さらにさらに同じ私兵同士で斬りあう部下たちの姿を。
「ど、どこにいく、貴様ら。私の命令がきけぬのかっ!?」
声を震わせてジェラード侯爵は叫んだが、狂乱の渦と化した今の広間内にあってはその声もかき消され、兵士たちに聞こえるはずもなかった。
もっとも、声が届いたところで戻ってくる者は皆無であったろうが。
さすがにそのことを悟ったのであろう。
ジェラード侯爵は閉口すると、崩れおちるようにして床の上にへたりこんだ。
石像のように座りこんだ侯爵の背中に、またしてもカルマンの冷ややかな声音がはじけた。
「哀れなものだな、ジェラード。舞踏会という華やかな舞台で妻女には先だたれ、部下には見捨てられる。醜悪な貴様の最期にふさわしいではないか、んん?」
「…………!!」
冷然きわまる嘲弄が鼓膜を刺激した瞬間、ジェラード侯爵の中で「なにか」が爆ぜた。
赫怒、焦燥、屈辱、そして絶望――。
それら「負の念」が渾然一体となって恐怖心を凌駕したとき、ジェラード侯爵は魂の底から激発した。
そうでなければ、おそらく侯爵は聞きとがめたであろう。「妻女には先立たれ」というカルマンの発した言葉を。
「お、おのれぇぇ……この死にぞこないがぁ!!」
激情の声ともにジェラード侯爵は立ちあがり、カルマンめがけて床を駆けだした。
憤怒の態で床を駆る侯爵の手には、いつしか長剣が握られていた。
警備の兵士が逃げる際に落としていったもので、ジェラード侯爵はその剣を奇声もろともカルマンの肩口に打ちこんでいったのだ。
こと武芸というものに侯爵はまったく通じていなかったが、それでもその一撃はカルマンの肩を裂いた。
視野を翳らせるほどの鮮血が裂かれた肩口から噴きだし、一瞬にして宙空に朱色の紗を織りあげた。
「ど、どうだ、思い知ったかっ!」
刃と柄を介して伝わってきたたしかな手応えに、ジェラード侯爵の顔に会心の表情が浮かんだ。しかし――。
「バカめ!」
カルマンの口もとに冷笑がさざ波のようにゆらめいた瞬間、すばやく振りあげられた腕がジェラード侯爵に向けて一閃した。
垂直に振りおろされたカルマンの手刀は、ジェラード候爵の右肩に直撃した直後、肉を裂き、骨を砕き、侯爵の右腕をたちまち肩口から切断した。
口角からは絶叫を、肩口からは噴血をそれぞれ宙空に放出しながら、ジェラード侯爵はもんどりうって床に倒れこんだ。
悲鳴をあげてのたうちまわるたびに肩口から噴きだす血が床に沼をつくり、その血沼の中を流れるような歩調でカルマンが近づいてくる。
肩にくいこんだ剣を無造作に抜きとり、それをほうり投げるとカルマンは足を止め、血にまみれた姿で悶絶するジェラード侯爵を見おろした。
完全な勝者のみが放つことができる愉悦の光が、その双眸にはあった。
「そろそろ終幕にしようか、ジェラード。わが父シャラモンが貴様の来るのを冥府で待っているのでな」
「……た、助けてくれ、カルマン卿。た、頼む……!」
消え入りそうな助命懇願の声に応えたのは、酷薄を絵に描いた微笑だった。
「ジェラード家の当主とあろう者が情けない命乞いなどしてくれるな。貴様とわが父シャラモンは、王立学院でともに学んだ学友同士と聞く。その友誼に免じ、せめて苦しまずに地獄へ送ってやろう」
カルマンの血に濡れた手が、ゆっくりとジェラード侯爵の顔に伸びていった……。