その④
文字数 2,217文字
ある貴族は逃げようとして踵を返したところを剣によって首をとばされ、一瞬遅れて頭を失った胴体が噴血をあげながら床にくずれおちた。
ある貴族は横をすり抜けて逃げようとしたところ、その際、鉄槌の一撃を頭に撃ちこまれ、血まみれの肉片と骨とが床に飛び散った。
ある貴族は駆けだしたものの床に足をとられて横転し、立ちあがりざまに後背から槍のひと突きによって腹を裂かれ、矛先にからんだ内臓ごとひきずりだされた。
ある貴族は胸を刃でえぐられ、ある貴族は胴体を真横に両断され、そのたびに噴きあがる血しぶきが宙空に赤い霧をつくり、床を朱色に染めあげた。
貴族の中には椅子やブロンズ像などを手にとって応戦し、反撃をこころみる者もいたのだが、しかし砕けるほどの勢いで兵士の頭や顔を殴打しても、どういうわけか兵士にはわずかな痛痒もあたえることはできず、逆に無慈悲な報復をうけて血の泥濘の中に沈んでいった。
悲鳴と血の臭気とが充満するそんな広間のひと隅で、フランツは一人惚けた態でたたずんでいた。
およそ現実とは思えない事態に直面して自失していたのだ。
それでも鼓膜を刺激した娘の悲鳴にようやく自己を回復させると、フランツはとっさにその腕をつかみ、叫んだ。
「逃げるぞ、シェリル。早く!」
「お、お父さま、お母さまとルチアがいないのよ!」
娘の一語にはっとしたフランツは、ごく短時間、広間内に視線をさまよわせた後、露台のほうに視線を走らせた。
「二人はまだ露台にいるはずだ。いくぞ、シェリル!」
狂乱の態で逃げまどう貴族の群をかきわけながら、二人は露台に向かって駆けだした。
視線の先には、ここが三階にもかかわらず露台から外へ逃げだそうと考えたのか。屋外に通じる大窓の前にはそこに殺到する貴族たちの姿があった。
目的は異なるが、ともかく彼らのもとにフランツとシェリルも駆けよろうとしたとき。前方にある大窓のひとつが異音をあげて吹き飛んだ。
「な、なんだっ!?」
足下に飛んできたガラス片や木片の群に、フランツとシェリルがあわてて足を止める。
仰天し、はっと視線を投げつけた先に二人が見たのは、やはりというべきか、大窓から広間へと侵入をはかるジェラード侯爵の私兵の姿であった。
さらに遅れること数瞬。別の大窓も連鎖するように異音をあげて吹き飛び、やはり同じように武装した兵士たちが広間内にあらわれ、その姿におののく貴族たちの前に立ちはだかった。
露台からの脱出を阻止する意図があることは疑いようもなかった。
「い、いったい、何人いるのよっ!?」
悲鳴まじりの声をあげたシェリルが、ふと傍らの父親をかえりみたとき。そのフランツはまたしても惚けたように立ちつくしていた。
大きくみはった、だが虚ろな視線を一方向に固定させたまま、礼服につつんだ長身を小刻みに震わせている。
「どうしたの、お父さま!?」
とっさに父親の異常を察したシェリルは、質すと同時に背後からその前に駆けでて、同じ方向に視線を走らせた。
そこに見たのは、なおも露台からの脱出をはかろうとする幾人かの貴族と、それを阻むように対峙する数人の兵士たちの姿である。
だがシェリルの目を奪ったのはいずれでもなく、兵士の一人が片手にさげている血まみれの個体にであった。
すぐにはわからなかったが、ややあってその正体を知ったとき。シェリルの鼓動が一瞬、停止した。
それは首から切断された人間の頭であった。母エリゼと弟ルチアの……。
「エ、エリゼ……ルチア……」
声をあえがせながら立ちつくすフランツの傍らで、シェリルが狂ったような悲鳴をあげたとき。それとは別の兵士が手にする戦斧を宙空に投げはなった。
烈しい回転をともなって投げつけられた戦斧は、測ったようにフランツめがけて一直線に宙空を疾走し、ほどなくその胸に深々と突きたった。
「ぐわあっ!!」
にごった悲鳴をあげて、フランツはのけぞるようにして床に倒れこんだ。
裂かれた胸から噴きでた鮮血がシェリルの白いドレスにはね、一瞬にしてまだら模様に染めあげる。
父親の身体が重々しく床にくずれおちる有様を、シェリルは喪心したような目で見守った。
なにごとが起きたのか、とっさに理解できなかったのだ。
「お、お父さまっ!?」
はっとわれに返ったとき、シェリルは倒れこんだフランツの身体をあわてて抱きかかえた。
その腕の中でフランツはなかば息絶えていたが、両目は鈍い光をたたえてなおも開いていた。
耳もとで狂ったように叫び続ける娘の顔に、フランツが血染めの手を伸ばす。
「……に、逃げろ、シェリル。逃げるのだ……」
そう言ったようにも思われたが、唇がかろうじて動いただけかもしれない。
まぶたがゆっくりと落ち、わずかに遅れて腕も床に落ちると、ランフォード家の栄華を夢みた貴族はそれきり動かなくなった。
「……お父さま?」
一瞬よりは長い沈黙の後、シェリルは腕の中の父親に声をかけた。
しかし、何度も身体をゆすり、何度も名前を呼んでも反応はない。
やがて父の死を認識したシェリルが悲鳴を発しようとしたとき、逃げまどう貴族の奔流が彼女を呑みこんだ……。
ある貴族は横をすり抜けて逃げようとしたところ、その際、鉄槌の一撃を頭に撃ちこまれ、血まみれの肉片と骨とが床に飛び散った。
ある貴族は駆けだしたものの床に足をとられて横転し、立ちあがりざまに後背から槍のひと突きによって腹を裂かれ、矛先にからんだ内臓ごとひきずりだされた。
ある貴族は胸を刃でえぐられ、ある貴族は胴体を真横に両断され、そのたびに噴きあがる血しぶきが宙空に赤い霧をつくり、床を朱色に染めあげた。
貴族の中には椅子やブロンズ像などを手にとって応戦し、反撃をこころみる者もいたのだが、しかし砕けるほどの勢いで兵士の頭や顔を殴打しても、どういうわけか兵士にはわずかな痛痒もあたえることはできず、逆に無慈悲な報復をうけて血の泥濘の中に沈んでいった。
悲鳴と血の臭気とが充満するそんな広間のひと隅で、フランツは一人惚けた態でたたずんでいた。
およそ現実とは思えない事態に直面して自失していたのだ。
それでも鼓膜を刺激した娘の悲鳴にようやく自己を回復させると、フランツはとっさにその腕をつかみ、叫んだ。
「逃げるぞ、シェリル。早く!」
「お、お父さま、お母さまとルチアがいないのよ!」
娘の一語にはっとしたフランツは、ごく短時間、広間内に視線をさまよわせた後、露台のほうに視線を走らせた。
「二人はまだ露台にいるはずだ。いくぞ、シェリル!」
狂乱の態で逃げまどう貴族の群をかきわけながら、二人は露台に向かって駆けだした。
視線の先には、ここが三階にもかかわらず露台から外へ逃げだそうと考えたのか。屋外に通じる大窓の前にはそこに殺到する貴族たちの姿があった。
目的は異なるが、ともかく彼らのもとにフランツとシェリルも駆けよろうとしたとき。前方にある大窓のひとつが異音をあげて吹き飛んだ。
「な、なんだっ!?」
足下に飛んできたガラス片や木片の群に、フランツとシェリルがあわてて足を止める。
仰天し、はっと視線を投げつけた先に二人が見たのは、やはりというべきか、大窓から広間へと侵入をはかるジェラード侯爵の私兵の姿であった。
さらに遅れること数瞬。別の大窓も連鎖するように異音をあげて吹き飛び、やはり同じように武装した兵士たちが広間内にあらわれ、その姿におののく貴族たちの前に立ちはだかった。
露台からの脱出を阻止する意図があることは疑いようもなかった。
「い、いったい、何人いるのよっ!?」
悲鳴まじりの声をあげたシェリルが、ふと傍らの父親をかえりみたとき。そのフランツはまたしても惚けたように立ちつくしていた。
大きくみはった、だが虚ろな視線を一方向に固定させたまま、礼服につつんだ長身を小刻みに震わせている。
「どうしたの、お父さま!?」
とっさに父親の異常を察したシェリルは、質すと同時に背後からその前に駆けでて、同じ方向に視線を走らせた。
そこに見たのは、なおも露台からの脱出をはかろうとする幾人かの貴族と、それを阻むように対峙する数人の兵士たちの姿である。
だがシェリルの目を奪ったのはいずれでもなく、兵士の一人が片手にさげている血まみれの個体にであった。
すぐにはわからなかったが、ややあってその正体を知ったとき。シェリルの鼓動が一瞬、停止した。
それは首から切断された人間の頭であった。母エリゼと弟ルチアの……。
「エ、エリゼ……ルチア……」
声をあえがせながら立ちつくすフランツの傍らで、シェリルが狂ったような悲鳴をあげたとき。それとは別の兵士が手にする戦斧を宙空に投げはなった。
烈しい回転をともなって投げつけられた戦斧は、測ったようにフランツめがけて一直線に宙空を疾走し、ほどなくその胸に深々と突きたった。
「ぐわあっ!!」
にごった悲鳴をあげて、フランツはのけぞるようにして床に倒れこんだ。
裂かれた胸から噴きでた鮮血がシェリルの白いドレスにはね、一瞬にしてまだら模様に染めあげる。
父親の身体が重々しく床にくずれおちる有様を、シェリルは喪心したような目で見守った。
なにごとが起きたのか、とっさに理解できなかったのだ。
「お、お父さまっ!?」
はっとわれに返ったとき、シェリルは倒れこんだフランツの身体をあわてて抱きかかえた。
その腕の中でフランツはなかば息絶えていたが、両目は鈍い光をたたえてなおも開いていた。
耳もとで狂ったように叫び続ける娘の顔に、フランツが血染めの手を伸ばす。
「……に、逃げろ、シェリル。逃げるのだ……」
そう言ったようにも思われたが、唇がかろうじて動いただけかもしれない。
まぶたがゆっくりと落ち、わずかに遅れて腕も床に落ちると、ランフォード家の栄華を夢みた貴族はそれきり動かなくなった。
「……お父さま?」
一瞬よりは長い沈黙の後、シェリルは腕の中の父親に声をかけた。
しかし、何度も身体をゆすり、何度も名前を呼んでも反応はない。
やがて父の死を認識したシェリルが悲鳴を発しようとしたとき、逃げまどう貴族の奔流が彼女を呑みこんだ……。