その⑥
文字数 1,932文字
男爵家の令嬢が多彩な料理の征服に夢中になっていた同時分。同じ会場の一隅ではちょっとした騒ぎが生じていた。
とがった鼻と銀色の頭髪をもつ中年の貴族が、屋敷で働く執事や侍女たちを会場の隅に集め、そこで彼らになにごとかを質していたのだ。
彼の名はウイルバルト・ジェラード侯爵といった。この屋敷の主人であり、今宵の舞踏会の主催者であり、バスク貴族の盟主と謳われている人物である。
「エリーシャの姿が見えないのだが、誰か知る者はいないか?」
ジェラード侯爵がそう訊ねると、彼のもとに集まってきた屋敷の執事や侍女たちは一様に困惑した顔を見あわせた。
エリーシャとは、ジェラード侯爵夫人のことである。
その夫人。ジェラード侯爵が挨拶に赴いてくる名士たちの応対をしている間に、いつのまにか会場から姿が見えなくなっていた。
そのことに遅まきながら気づき、不審に思った侯爵が捜していたのだが、その姿はようとして見つからなかった。
「それが、先刻よりわれわれもお姿を見ておりません。お疲れになって、どちらかのお部屋で休まれているのではと思うておりましたが……」
執事長である初老の男が、一同を代表してそう答えた。
執事長の言葉にいぶかしげな表情をつくりつつも無言でうなずいたのは、ジェラード侯爵自身もそう考えていたからであろう。
侯爵は得心したように小さくうなずき、あらためて妻を捜すように彼らに命じた。
会場に通じる出入り口の扉のひとつが人知れず静かに開いたのは、家人たちが主人の前より散開したのとほぼ同時のことである。
蝶番の低い金属音がおさまった後、ゆっくりとした歩調で広間内に歩を進めてきたのは、白を基調とした礼服に身をつつんだ一人の青年だった。
年齢は二十代後半。
すらりとした長身の、金褐色の髪と青灰色の瞳をもつ貴公子然とした青年で、自分が貴族であることを無言で主張している。
ほどなく青年の入室に気づいた一部の貴族が、広間を歩く彼に誰何の視線を向けた。
貴族たちの顔が驚愕に凍てついたのは、それからすぐのことである。
誰もがその青年の顔に記憶があったのだ。
「お、おい、あれはもしかして……?」
「ああ。あの青年はたしか、ベルド伯爵家のカルマン卿では……!?」
たちまち低いどよめきが波紋となって、一部の貴族たちの間に広がった。
およそバスク王国の人間であれば、身分や階級を問わずベルド伯爵家を知らぬ者はいない。
ジェラード侯爵家に匹敵する名族として、三州の領地と五万の領民を有するバスク王国屈指の大貴族である。
過去に幾人もの王妃を排出した王室外戚としての権勢は絶大で、貴族社会においてそのライバルと呼べる相手は、同じ外戚として宮廷社会に一大閥を築くジェラード侯爵が存在するだけだ。すくなくとも、かつてはそうだった。
その貴族社会における勢力関係に異変が生じたのは、今から二ヶ月前のことである。
ベルド家の当主シャラモン・ベルド伯爵に、国王の暗殺を企てていたという嫌疑がかけられ、宮廷から失脚したのだ。
自らにかけられた嫌疑にシャラモンは当初から冤罪を訴えていたが、幾度かの調査と裁判を経て国王から死罪を言いわたされると、もはや弁明の無意味さを悟ったのか。一族郎党をひきつれて居城の一つに篭城。
その地で私兵と傭兵あわせて八千の兵を動員し、身柄拘束のために国都から派遣されてきた国軍との戦いにうってでたのである。
しかしジェラード侯爵を主将とする三万の国軍の前では、八千の兵など多勢に無勢。わずか一戦をもってベルド家の私兵団は蹴散らされ、ほどなく立て籠もっていた城も陥落した。
火炎と黒煙につつまれた城内で、シャラモンをはじめとするベルド一族はことごとく自害してはてた――ものと思われていたが、後日、国軍が遺体確認のために城内に足を踏み入れたとき、その中にシャラモンの長子カルマンの遺体だけがなかった。
わずかに生き残った家人の一人を問いつめると、一人だけ自害を拒否し、城の地下通路を使って外界に逃れたという。
その一報に憤然となったジェラード侯爵はすぐに追っ手の兵をさしむけたが、幾日が過ぎても、その行方はようとしてつかむことができなかった。
その後、カルマンは大逆犯の身内として高額の懸賞金とともに国中に手配されたが、一月、二月と時間が経つにつれ、先の戦いで負傷しているという情報もあいまって、おおかた逃げ隠れたどこかの山中でのたれ死にしたのであろうと、バスク中の人々はささやいていた……。
とがった鼻と銀色の頭髪をもつ中年の貴族が、屋敷で働く執事や侍女たちを会場の隅に集め、そこで彼らになにごとかを質していたのだ。
彼の名はウイルバルト・ジェラード侯爵といった。この屋敷の主人であり、今宵の舞踏会の主催者であり、バスク貴族の盟主と謳われている人物である。
「エリーシャの姿が見えないのだが、誰か知る者はいないか?」
ジェラード侯爵がそう訊ねると、彼のもとに集まってきた屋敷の執事や侍女たちは一様に困惑した顔を見あわせた。
エリーシャとは、ジェラード侯爵夫人のことである。
その夫人。ジェラード侯爵が挨拶に赴いてくる名士たちの応対をしている間に、いつのまにか会場から姿が見えなくなっていた。
そのことに遅まきながら気づき、不審に思った侯爵が捜していたのだが、その姿はようとして見つからなかった。
「それが、先刻よりわれわれもお姿を見ておりません。お疲れになって、どちらかのお部屋で休まれているのではと思うておりましたが……」
執事長である初老の男が、一同を代表してそう答えた。
執事長の言葉にいぶかしげな表情をつくりつつも無言でうなずいたのは、ジェラード侯爵自身もそう考えていたからであろう。
侯爵は得心したように小さくうなずき、あらためて妻を捜すように彼らに命じた。
会場に通じる出入り口の扉のひとつが人知れず静かに開いたのは、家人たちが主人の前より散開したのとほぼ同時のことである。
蝶番の低い金属音がおさまった後、ゆっくりとした歩調で広間内に歩を進めてきたのは、白を基調とした礼服に身をつつんだ一人の青年だった。
年齢は二十代後半。
すらりとした長身の、金褐色の髪と青灰色の瞳をもつ貴公子然とした青年で、自分が貴族であることを無言で主張している。
ほどなく青年の入室に気づいた一部の貴族が、広間を歩く彼に誰何の視線を向けた。
貴族たちの顔が驚愕に凍てついたのは、それからすぐのことである。
誰もがその青年の顔に記憶があったのだ。
「お、おい、あれはもしかして……?」
「ああ。あの青年はたしか、ベルド伯爵家のカルマン卿では……!?」
たちまち低いどよめきが波紋となって、一部の貴族たちの間に広がった。
およそバスク王国の人間であれば、身分や階級を問わずベルド伯爵家を知らぬ者はいない。
ジェラード侯爵家に匹敵する名族として、三州の領地と五万の領民を有するバスク王国屈指の大貴族である。
過去に幾人もの王妃を排出した王室外戚としての権勢は絶大で、貴族社会においてそのライバルと呼べる相手は、同じ外戚として宮廷社会に一大閥を築くジェラード侯爵が存在するだけだ。すくなくとも、かつてはそうだった。
その貴族社会における勢力関係に異変が生じたのは、今から二ヶ月前のことである。
ベルド家の当主シャラモン・ベルド伯爵に、国王の暗殺を企てていたという嫌疑がかけられ、宮廷から失脚したのだ。
自らにかけられた嫌疑にシャラモンは当初から冤罪を訴えていたが、幾度かの調査と裁判を経て国王から死罪を言いわたされると、もはや弁明の無意味さを悟ったのか。一族郎党をひきつれて居城の一つに篭城。
その地で私兵と傭兵あわせて八千の兵を動員し、身柄拘束のために国都から派遣されてきた国軍との戦いにうってでたのである。
しかしジェラード侯爵を主将とする三万の国軍の前では、八千の兵など多勢に無勢。わずか一戦をもってベルド家の私兵団は蹴散らされ、ほどなく立て籠もっていた城も陥落した。
火炎と黒煙につつまれた城内で、シャラモンをはじめとするベルド一族はことごとく自害してはてた――ものと思われていたが、後日、国軍が遺体確認のために城内に足を踏み入れたとき、その中にシャラモンの長子カルマンの遺体だけがなかった。
わずかに生き残った家人の一人を問いつめると、一人だけ自害を拒否し、城の地下通路を使って外界に逃れたという。
その一報に憤然となったジェラード侯爵はすぐに追っ手の兵をさしむけたが、幾日が過ぎても、その行方はようとしてつかむことができなかった。
その後、カルマンは大逆犯の身内として高額の懸賞金とともに国中に手配されたが、一月、二月と時間が経つにつれ、先の戦いで負傷しているという情報もあいまって、おおかた逃げ隠れたどこかの山中でのたれ死にしたのであろうと、バスク中の人々はささやいていた……。