その⑤

エピソード文字数 1,940文字


 「いったいなにごとだ、リンツ。騒々しい」

 ルシオン大司教にやんわりと叱責されてリンツ司祭は恐れいって頭をさげたが、それでも荒い息づかいともつれる舌を必死に制御して語をつないだ。

「も、申しわけございません。ですが、いますぐ外をごらんになってください!」

「なに、外を?」

 リンツ司祭のただならぬ様子に、さすがに異常を感じとったのだろう。

 それ以上、子細を質すことなくルシオン大司教は椅子から立ちあがり、カーテンを開けて窓の留め金に手をかけた。

 窓が開け放たれると、身震いするほどの寒気が流れこんできた。

 南方帯に位置するバスク王国は本来、六月も終わりにさしかかった今頃は、夜でも窓を開放して眠ることができるほど温暖なはずなのだが、どういうわけかここ数日来、バスク王国は全土で異例の寒波に見舞われていたのだ。

 白く濁った息をひとつ吐き出した後、窓から身を乗りだしたルシオン大司教の眼下では、真夜中にもかかわらず教会に勤める聖職者や衛兵たちがこぞって庭に出て、なにやらうろたえたように騒いでいた。

 中には神の名を唱えながら手をあわせて祈る者までいる。

 彼らの姿にルシオン大司教は眉をひそめていぶかり、一様に指をさしむける西の方角にゆっくりと視線を走らせた次の瞬間――。

「な、なんと……!?

 その光景を視認したとき。胆力にすぐれているはずのルシオン大司教はおもわず心身を硬直させ、大きくみはった碧眼を驚愕に濁らせた。

 窓枠におかれた手は小刻みに震え、喪心したような眼差しは遠景の一点に固定されている。

 ルシオン大司教が絶句した理由――。

 それは教会から西の方角にはてしなく広がる夜空の一角が、まるで夕焼けのように朱色に染まっていたのだ。

 さながら黒い画布カンバスの上に垂れおちた赤いインクが滲んで広がったような、そんな光景である。

 むろん夜半過ぎの現在、夕焼けなどではないことは明らかで、それゆえリンツ司祭を含めた教会の人々は声をあげて驚き、怪異としか表現できない光景に怯え、うろたえていたのだ。

 それはルシオン大司教も同様であるが、彼の場合、蒼白顔で声をわななかせた理由は別にあった。

「ま、まさか、あれは【ヴラドの渇き】か!?

 うめきにも似たその声は低く、他者に向けたというよりは独語に近かっため、後背にひかえるリンツ司祭には聞こえなかったようである。

 胸の前で小さく十字を切りながら、リンツ司祭がしみじみとした声を漏らした。

「まことにまがまがしい光景にございますな。昨今の季節はずれの寒気といい、なにかの天変地異の前兆まえぶれでなければよろしいのですが……」

 うそ寒そうに首をすくめるリンツ司祭の声はこのとき、ルシオン大司教の鼓膜にも届いていなかった。

 まるで惚けたように無言を保ったまま、怪異な遠景を声もなく見つめている。

 ルシオン大司教は知っていたのだ。

 季節はずれの寒波はともかく、あの朱色に染まった奇怪な夜空がいかなる事態の前兆であるかを。

 それは《御使い》と称される人ならざる悪魔が、この世に、それもこの国のいずこかで誕生したことを。 

 朱色に染まったあの奇怪な夜空こそ、この第一教会に勤める、否、世界中に数多いるダーマ神教の聖職者の九割九分の者が知ることのない、ごく一部の高位司教だけが知る教皇庁の最高機密【ヴラドの渇き】なのであった。

「こ、こうしてはおられん!」

 ようやく自己を回復させたルシオン大司教は、向き直りざまにリンツ司祭に命じた。

「リンツ、至急、早馬を用意するのだ。教皇庁に急使を送るゆえな」

「は、急使でございますか?」

 唐突な大司教の言葉に、リンツ司祭はおもわず目をしばたたいた。

 額に微量の汗をにじませながらルシオン大司教がうなずく。

「そうだ。事態は一刻を争うのだ。急ぐのだぞ!」

「は、はい。かしこまりました!」

 事情はよくわからないが、ともかくルシオン大司教の切迫した表情と声に鞭うたれたリンツ司祭は、一礼するなり飛びだすように部屋を後にした。

 従者を呼びもとめる部下の声を耳にしながら、ルシオン大司教はもう一度窓から身を乗りだして、西の方角に視線を走らせた。

 朱色というよりは、むしろ濁った血を思わせる赤黒く映える奇怪な夜空が、今も西天の一角に広がっている。

 そして、それは刻一刻と濃度を高めているように大司教の目には見えた。

「あれが〈ヴラドの渇き〉か。よもやこの目で見ることになろうとは……」

 あえぐようなルシオン大司教の声には、底知れない焦燥と不安の響きがあった……。


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登場人物紹介

○キリコ

本作の主人公。18歳。通称「聖キリコ」

人外の悪魔《御使い》との戦いのために教皇庁が極秘裏に組織した戦闘集団【聖武僧(セイント)】の一人


○グレアム枢機卿

ダーマ教皇庁の幹部司教の一人

次期ダーマ教皇の最有力候補

教皇庁内部組織の一つ【奇蹟調査局】の長官

○シトレー大司教

教皇庁の幹部司教の一人

奇蹟調査局の審議官

キリコの後見人的存在


○ルシオン大司教

バスク国教会の代表司祭

怪異現象【ヴラドの渇き】を目の当たりにして教皇庁に急報する

○フェレンツ大司教

教皇庁の幹部司教の一人

奇蹟調査局の審議官

大富豪一族フェレンツ家の出身


○カルマン・ベルド

バスク王国の名門貴族ベルド伯爵家出身の青年貴族

国王暗殺未遂の容疑で王国全土に手配犯として追われる


○ジェラード侯爵

バスク王国最大の貴族


○シェリル・ランフォード

バスク王国の貴族ランフォード男爵の令嬢

○フランツ・ランフォード男爵

バスク貴族ランフォード男爵家の当主

シェリルの父

○ヨブ・ファティマ

ダーマ神教の創始者にして預言者

万物の創造主ダーマより救世の啓示を受ける

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