その⑧
文字数 1,703文字
ランプの淡いオレンジ色の光に照らされた石造りの階段を降りながら、フェレンツ大司教は領内で働く聖職者たちの間でまことしやかにささやかれている、教皇庁に関するさまざまな噂を思いだした。
建物の内部には、たとえ庁内で働く官吏であっても許可なく立ち入ることができない部屋や、厳重な施錠をされて通ることすらできない扉がいくつかある。
警備もまた厳重で、この地下への入口と同様、甲冑とサーベルで武装した屈強な衛兵が昼夜、庁内各所に立って鋭い監視の目を光らせている。ゆえに子細を知らない人々は、
「内部には一部の高位司教しか知らない宗教的財宝が隠されているのではか?」
「いや、地下には預言者ファティマの秘密の陵墓があるらしい」
などと、興味本位にささやきあっていた。
フェレンツ大司教自身、まだ出身国であるランドウェル王国で末端の司祭として歩みはじめた時分。
上役の司教にともなわれてファティマに赴き、教皇庁内にはじめて足を踏み入れたものの内部に不案内で、建物内をあちこち歩きまわっているところを衛兵に注意されたことがある。
そのときフェレンツ大司教は、たとえダーマ神教の聖職者であっても、知ってはならない「なにか」がこの建物内にあることを察したのである。
それから十年余り。
異数の出世で三十代で教皇庁ほんちようの大司教となり、奇蹟調査局の審議官にまで登りつめた今、その正体をフェレンツ大司教は知っている。
それは人々が噂するような財宝の類でもなければ陵墓でもない。
なぜなら【あの男】は今も生きているのだから……。
そんなことを考えながら歩を進めるフェレンツ大司教の耳に、前を歩くグレアム枢機卿とシトレー大司教の会話が聞こえてきた。
「先ほどの続きですが、猊下。やはり人々の信仰がゆらいでいる要因は、昨今、われわれ聖職者の間に生じている、あいつぐ不祥事も影響していると見るべきでしょうな」
「うむ。たしかに要因のひとつであることは否定できぬな」
グレアム枢機卿の口から小さなため息が漏れた。
ここ一年だけ見ても、聖職者でありながら娼婦に溺れた者、寄進された金品を着服した者、教会の予算を流用して商売に手を出す者など、教圏各地から教皇庁にもたらされる不祥事の種類は多岐にわたり、かつ枚挙にいとまがない。
かりにも地上における神の代理人を称している者が世俗にまみれ、悪事に手を染めていては、いかに神の教えを説いても説得力をもたぬのは道理というものである。
後背からフェレンツ大司教が声をはさんできた。
「まじめに神を信じ、善行を積んでいる者がほとんどなのですが、残念ながら世の中というものは、善行に励む人間よりも悪事に走る人間のほうに関心がいきやすいものですからね。かといって事実を隠蔽すれば、事態はさらに悪化するでしょうし」
「そのとおりだ、フェレンツ卿」
グレアム枢機卿は振り返ることなくうなずき、語をつないだ。
「神の代理人たるわれらダーマ神教の聖職者は、常に試練に直面し、それを克服する責務をおびているのだ。不祥事の隠蔽という愚行に走ったが最後、われらは神の代理人としての資格を失い、それはすなわち、教圏世界の崩壊を意味する。地上の正義を保つためにも、われらは常に試練と向き合っていかなければならぬのだ」
「難儀なことですね」
若い大司教の率直な感想は、初老の枢機卿を苦笑させた。
「そう、たしかに難儀なことではある。だが、われらはそのことから逃げるわけにはいかぬ。神に仕える者が不都合な事実から目をそらし、不名誉を恐れて隠蔽に走るようなことがあれば、われらの先人たちが千年間かけて築きあげてきた、ダーマ神教と教皇庁の権威にほころびが生じるどころではすまぬ」
グレアム枢機卿が口を閉ざすと、三人の周囲にわだかまるような沈黙が訪れた。
二人の大司教が考えているよりも、グレアム枢機卿がはるかに深刻な懸念を現状に抱いていることに気づいたからだ。
三人は重い沈黙を保ちつつ、さらに階段を降り続けた。