第26話 懐石料理みたい⁉『利休にたずねよ』
文字数 3,929文字
ちょっと時間が空いてしまいましたが、前回に引き続き山本兼一さんの作品。
歴史小説の中でもかなり手の込んだ趣で、凝りに凝った芸術作品と言って良いかと思います。
例えて言うなら、史実という食材をそのままどーんと出すのではなく、とことん手間をかけて調理したイメージ。
しかも短編オムニバス形式の物語には、料理を小さく切り出してセンスの良い器に盛り、それを折敷 に並べているような美しさがあります。これってまさに千利休が心を尽くした、懐石料理のようじゃないですか。
利休を描いた小説は他にもありますが、私がダントツで推したいのがこの作品。上品で落ち着いた雰囲気かと思いきや、その正体は波乱万丈であるところがポイントです!
山本兼一『利休にたずねよ』
さて千利休という人物に、どんなイメージをお持ちでしょうか。
茶の湯の大成者? ですよね。「茶聖」と呼ばれるほどの人ですから。
長谷川等伯が描いた肖像画をご存知の方は、まさに茶人としての枯れた雰囲気を思い浮かべるでしょうか。とにかく「枯淡」のイメージが強い人ですよね。
いや、歴史に詳しい方は、信長にも秀吉にも茶頭 として重用された、けっこう野心的な人物としてイメージするかもしれません。で、最後は秀吉から難癖を付けられ、切腹させられるわけですが、その理由には諸説あって、いまだに定まってはいないようです。
ただ利休のことを取り上げた小説では、育ちが悪いのに天下人にまでのし上がった秀吉が、教養のある利休に嫉妬するあまり切腹を命じた……といった感じに描かれているのが定番。
この『利休にたずねよ』も、大まかにはその流れです。だけど史実の説明はさほど多くはなく、むしろ利休の生み出した茶の湯がいかに美しかったか。その描写にかなりの筆を割いているのが特徴です。
とにかく利休という人は、命を削るほどの壮絶さで「美」を追求しており、それを崩されるぐらいなら切腹もやむなしと考えるのです。
死を前にした利休は、愚かな秀吉に対し、こんなことを心の中でつぶやきます。
「天下をうごかしているのは、武力と銭金 だけではない。
美しいものにも、力がある」
「枯れ寂 びた床 に息づく椿の蕾の神々しさ。
松籟 を聞くがごとき窯の湯音の縹渺 。
ほのかな明るさの小間 で手にする黒楽茶碗の肌の幽玄。
なにげない美を見つけ出し、ひとつずつ積みかさねることで、一服 の茶に、静謐にして力強い美があふれる。」
「わしが額 ずくのは、ただ美しいものだけだ」
なぜ彼は、ここまで美にこだわったんでしょうね?
秀吉の無茶苦茶な言いがかりに対し、利休は特に抗弁することもなく従容として死に向かうのですが、読者としてはいくら何でも、と思わずにはいられません。嘘でもいいから、秀吉に頭を下げれば良かったのに、と。
でも、それができなかった理由があるんですよね。
その謎を解いていくのが、物語の骨子となっているわけです。
この物語は、千利休の切腹当日から始まります。そこから異なる人物視点による短編がいくつも重なり、次第に時系列をさかのぼっていきます。
この構成の妙がすごい。主人公の死から始まる物語というわけです。
さまざまな人物が利休との関わりについて語ります。どの人物も、利休の美が圧倒的であることを感じています。
道具の一つ一つ、お茶の点て方、茶室の窓から見える風景に至るまで、利休が隙のないほど心配りをしているのが分かります。
他の人物では「わび」「さび」を目指しても、どこかに作為が感じられ「あざとさ」が見えてしまうもの。なのに利休がちょっと表現に手を入れると、たちまち完璧かつ自然な美が完成するのです。
なぜこんなことができるのか。登場人物のみならず読者も首を傾げます。
次第に見えてくるのは、利休の美には、どんなに枯れた味わいであってもどこかに生命の息吹が感じられるということ。謎に包まれたこの艶めかしさが、物語の「肝」になっています。タイトルの「たずねよ」はミステリー仕立てのこの作品の方向性を表しているのかもしれません。
たとえば、秀吉の感想はこんな感じ。
「腹の底から麗しい気持ちがわきあがってくるのを、しみじみ味わった。
――不思議なことだ。
利休のしつらえる茶の席にすわると、どういうわけか、そこはかとない生の歓びが、静かにこみあげてくる。
ほかの茶頭 がしつらえた席では、こうはいかない。
ただ四本の柱を立て、茅を葺 くだけのことなのに、利休が差配 すると、屋根のかたむきも、軒 のぐあいも、席から見える風景も、じつにしっくりと客のこころになじみ、すわっているだけで、いまこのときに生きていることの歓びが、しっとり味わえる」
こんな調子でいちいち納得させられてしまうからこそ、秀吉は利休に嫉妬します。自分の軍師、黒田官兵衛(茶の湯嫌い)までが利休の仕事に感動し、やがては心酔してしまうのだから、本当に面白くない。
しかし秀吉だって天下人にまでなった人ですし、必死に勉強もしていましたから、彼の方が真理を見抜くこともあります。
「おまえの茶は、侘び、寂びとは正反対。見た目ばかりは枯れかじけた風をよそおっておるが、内には、熱い何かが滾 っておる」
利休は指摘を受けてはっとしますが、まだ答えは明かされません。
ところで茶道を習ったことのある方は、楽茶碗をご存知だと思います。千利休が焼かせた軟質陶器の抹茶碗ですね。
この物語の各エピソードはそれぞれが印象的なんですが、私はこの楽家初代に当たる「あめや長次郎」の章が特に心に残りました。
彼は瓦職人なので、茶道の道具を作るのは得意ではありません。たまたま利休に見込まれ、茶碗作りを頼まれますが、とても要求に応える作品を生み出すことができずに、途中で投げ出そうとします。
ところが。
宗易(利休)に女のものと思われる桜色の爪を見せられると、長次郎の職人魂に火が付くんですね。死んだ女の体から食いちぎった爪。そんなものを持っているだけで不気味な話ですが、長次郎もその爪に魅了されます。
さぞ白く美しい手であっただろう。その手に似合う茶碗を作らねば。そう思ったら、急に目指す方向が見えてきたわけです。赤楽茶碗はそうして完成します。
利休の過去を追っていくと、こうしてフラッシュバックのように美しい一人の女性の姿が見え隠れします。もちろん秀吉は好色ぶりを隠そうともしない人ですから(何と「黄金の茶室」で女性を抱くシーンまで登場!)、利休に対しその辺りを何度も探ろうとするのですが、利休は頑なに答えません。
具体的に何が起こったのかは、物語の終盤に至ってようやく明かされます。
ネタバレは控えますが、19歳の与四郎(利休)が、若者らしい浅慮の末に起こした事件があったのです。ひたすら静謐の中にあった物語が、ここで一転、スピード感を増し、怒涛のように激しいものとなります。
利休はずっと、小さな緑釉の香合を肌身離さず持っていました。秀吉から求められても、これだけは決して手放しませんでした。生涯の無念がそこにあったからです。
予想はしていたけれど、それでも予想を上回るこの激しい美への執着。
事件の鍵となるのが、高麗という国に関連していることも、山本さんのこだわりだったかもしれません。朝鮮半島の人々が多く強制連行されてくるのは、利休の死より後のことですが、日本の美の象徴ともいうべき茶の湯の完成の裏には、彼らの血と涙があったわけですから。
人生を賭して追い求める美。卓越した審美眼。そして時流を見る眼。時には傲慢にも映る、絶対的な自信。
利休を形作るそうした姿勢は、命がけの美だったからこそなのです。覚悟が据わり、今後は死を賭して茶の湯の精進に励もうと思ったその心情は、ラスト近く、武野紹鴎の茶室で道具を壊すシーンに現れています。
鳥肌が立つような作品です。山本兼一さんの最高傑作だと思います。
さてこの作品も映画化されています。主演は市川海老蔵さん。
好きな小説の映像化にはどうしても辛口になってしまう私ですが、この映画版『利休にたずねよ』は、まあ許容範囲かな(またまた偉そうな言い方ですみません……)。日本の四季の風景を含め、美しい茶の湯の世界を、巧みに映像に映し出しています。この映像を見るために映画を鑑賞するのも良いかと。
海老蔵さんの、抑えに抑えた演技も良いです。抑え過ぎのような気もしましたが、終盤の爆発的な展開とのコントラストが効いているし、利休の残りの人生は死んだも同然だったかもしれないので、これもアリでしょう。
この極端な印象は、やっぱり歌舞伎役者さんならではですね。
ただし(やっぱり辛口になってしまいますが)、映画版では物語が説明不足だし、時系列の進み方が原作とは異なっているので、分かりにくい部分があります。
こういう作品は、ある程度「割り切って」見る必要があるのかもしれませんね。
たぶん小説を書いている方は私と同じで、こういうふんわりした作品に対し「伏線回収ができていない」とか、「史実と違う」などと突っ込みたくなると思いますが、それは野暮というものでしょう。素直に「海老蔵さん、かっこいい~!」と楽しめる人の方が正しいわけですよ(笑)。
だけど小説か映画か、どちらか一方を鑑賞する場合は、やっぱり小説の方をお勧めさせて下さい。完成度の高さは小説の方がずっと上です。
山本兼一さんの高い技術力は、歴史小説のあり方を変えたと思います。みんなが知っている史実を驚くべき手法で新たな局面からあぶりだしてくれますから。
他に類のない歴史小説。前回の『火天の城』もおすすめですが、こちらも強力に推させて頂きます!
歴史小説の中でもかなり手の込んだ趣で、凝りに凝った芸術作品と言って良いかと思います。
例えて言うなら、史実という食材をそのままどーんと出すのではなく、とことん手間をかけて調理したイメージ。
しかも短編オムニバス形式の物語には、料理を小さく切り出してセンスの良い器に盛り、それを
利休を描いた小説は他にもありますが、私がダントツで推したいのがこの作品。上品で落ち着いた雰囲気かと思いきや、その正体は波乱万丈であるところがポイントです!
山本兼一『利休にたずねよ』
さて千利休という人物に、どんなイメージをお持ちでしょうか。
茶の湯の大成者? ですよね。「茶聖」と呼ばれるほどの人ですから。
長谷川等伯が描いた肖像画をご存知の方は、まさに茶人としての枯れた雰囲気を思い浮かべるでしょうか。とにかく「枯淡」のイメージが強い人ですよね。
いや、歴史に詳しい方は、信長にも秀吉にも
ただ利休のことを取り上げた小説では、育ちが悪いのに天下人にまでのし上がった秀吉が、教養のある利休に嫉妬するあまり切腹を命じた……といった感じに描かれているのが定番。
この『利休にたずねよ』も、大まかにはその流れです。だけど史実の説明はさほど多くはなく、むしろ利休の生み出した茶の湯がいかに美しかったか。その描写にかなりの筆を割いているのが特徴です。
とにかく利休という人は、命を削るほどの壮絶さで「美」を追求しており、それを崩されるぐらいなら切腹もやむなしと考えるのです。
死を前にした利休は、愚かな秀吉に対し、こんなことを心の中でつぶやきます。
「天下をうごかしているのは、武力と
美しいものにも、力がある」
「枯れ
ほのかな明るさの
なにげない美を見つけ出し、ひとつずつ積みかさねることで、
「わしが
なぜ彼は、ここまで美にこだわったんでしょうね?
秀吉の無茶苦茶な言いがかりに対し、利休は特に抗弁することもなく従容として死に向かうのですが、読者としてはいくら何でも、と思わずにはいられません。嘘でもいいから、秀吉に頭を下げれば良かったのに、と。
でも、それができなかった理由があるんですよね。
その謎を解いていくのが、物語の骨子となっているわけです。
この物語は、千利休の切腹当日から始まります。そこから異なる人物視点による短編がいくつも重なり、次第に時系列をさかのぼっていきます。
この構成の妙がすごい。主人公の死から始まる物語というわけです。
さまざまな人物が利休との関わりについて語ります。どの人物も、利休の美が圧倒的であることを感じています。
道具の一つ一つ、お茶の点て方、茶室の窓から見える風景に至るまで、利休が隙のないほど心配りをしているのが分かります。
他の人物では「わび」「さび」を目指しても、どこかに作為が感じられ「あざとさ」が見えてしまうもの。なのに利休がちょっと表現に手を入れると、たちまち完璧かつ自然な美が完成するのです。
なぜこんなことができるのか。登場人物のみならず読者も首を傾げます。
次第に見えてくるのは、利休の美には、どんなに枯れた味わいであってもどこかに生命の息吹が感じられるということ。謎に包まれたこの艶めかしさが、物語の「肝」になっています。タイトルの「たずねよ」はミステリー仕立てのこの作品の方向性を表しているのかもしれません。
たとえば、秀吉の感想はこんな感じ。
「腹の底から麗しい気持ちがわきあがってくるのを、しみじみ味わった。
――不思議なことだ。
利休のしつらえる茶の席にすわると、どういうわけか、そこはかとない生の歓びが、静かにこみあげてくる。
ほかの
ただ四本の柱を立て、茅を
こんな調子でいちいち納得させられてしまうからこそ、秀吉は利休に嫉妬します。自分の軍師、黒田官兵衛(茶の湯嫌い)までが利休の仕事に感動し、やがては心酔してしまうのだから、本当に面白くない。
しかし秀吉だって天下人にまでなった人ですし、必死に勉強もしていましたから、彼の方が真理を見抜くこともあります。
「おまえの茶は、侘び、寂びとは正反対。見た目ばかりは枯れかじけた風をよそおっておるが、内には、熱い何かが
利休は指摘を受けてはっとしますが、まだ答えは明かされません。
ところで茶道を習ったことのある方は、楽茶碗をご存知だと思います。千利休が焼かせた軟質陶器の抹茶碗ですね。
この物語の各エピソードはそれぞれが印象的なんですが、私はこの楽家初代に当たる「あめや長次郎」の章が特に心に残りました。
彼は瓦職人なので、茶道の道具を作るのは得意ではありません。たまたま利休に見込まれ、茶碗作りを頼まれますが、とても要求に応える作品を生み出すことができずに、途中で投げ出そうとします。
ところが。
宗易(利休)に女のものと思われる桜色の爪を見せられると、長次郎の職人魂に火が付くんですね。死んだ女の体から食いちぎった爪。そんなものを持っているだけで不気味な話ですが、長次郎もその爪に魅了されます。
さぞ白く美しい手であっただろう。その手に似合う茶碗を作らねば。そう思ったら、急に目指す方向が見えてきたわけです。赤楽茶碗はそうして完成します。
利休の過去を追っていくと、こうしてフラッシュバックのように美しい一人の女性の姿が見え隠れします。もちろん秀吉は好色ぶりを隠そうともしない人ですから(何と「黄金の茶室」で女性を抱くシーンまで登場!)、利休に対しその辺りを何度も探ろうとするのですが、利休は頑なに答えません。
具体的に何が起こったのかは、物語の終盤に至ってようやく明かされます。
ネタバレは控えますが、19歳の与四郎(利休)が、若者らしい浅慮の末に起こした事件があったのです。ひたすら静謐の中にあった物語が、ここで一転、スピード感を増し、怒涛のように激しいものとなります。
利休はずっと、小さな緑釉の香合を肌身離さず持っていました。秀吉から求められても、これだけは決して手放しませんでした。生涯の無念がそこにあったからです。
予想はしていたけれど、それでも予想を上回るこの激しい美への執着。
事件の鍵となるのが、高麗という国に関連していることも、山本さんのこだわりだったかもしれません。朝鮮半島の人々が多く強制連行されてくるのは、利休の死より後のことですが、日本の美の象徴ともいうべき茶の湯の完成の裏には、彼らの血と涙があったわけですから。
人生を賭して追い求める美。卓越した審美眼。そして時流を見る眼。時には傲慢にも映る、絶対的な自信。
利休を形作るそうした姿勢は、命がけの美だったからこそなのです。覚悟が据わり、今後は死を賭して茶の湯の精進に励もうと思ったその心情は、ラスト近く、武野紹鴎の茶室で道具を壊すシーンに現れています。
鳥肌が立つような作品です。山本兼一さんの最高傑作だと思います。
さてこの作品も映画化されています。主演は市川海老蔵さん。
好きな小説の映像化にはどうしても辛口になってしまう私ですが、この映画版『利休にたずねよ』は、まあ許容範囲かな(またまた偉そうな言い方ですみません……)。日本の四季の風景を含め、美しい茶の湯の世界を、巧みに映像に映し出しています。この映像を見るために映画を鑑賞するのも良いかと。
海老蔵さんの、抑えに抑えた演技も良いです。抑え過ぎのような気もしましたが、終盤の爆発的な展開とのコントラストが効いているし、利休の残りの人生は死んだも同然だったかもしれないので、これもアリでしょう。
この極端な印象は、やっぱり歌舞伎役者さんならではですね。
ただし(やっぱり辛口になってしまいますが)、映画版では物語が説明不足だし、時系列の進み方が原作とは異なっているので、分かりにくい部分があります。
こういう作品は、ある程度「割り切って」見る必要があるのかもしれませんね。
たぶん小説を書いている方は私と同じで、こういうふんわりした作品に対し「伏線回収ができていない」とか、「史実と違う」などと突っ込みたくなると思いますが、それは野暮というものでしょう。素直に「海老蔵さん、かっこいい~!」と楽しめる人の方が正しいわけですよ(笑)。
だけど小説か映画か、どちらか一方を鑑賞する場合は、やっぱり小説の方をお勧めさせて下さい。完成度の高さは小説の方がずっと上です。
山本兼一さんの高い技術力は、歴史小説のあり方を変えたと思います。みんなが知っている史実を驚くべき手法で新たな局面からあぶりだしてくれますから。
他に類のない歴史小説。前回の『火天の城』もおすすめですが、こちらも強力に推させて頂きます!