第4話 スポーツがくれる感動『陸王』

文字数 3,205文字

 打つ手の見つからない感染爆発の下での、不完全なオリンピック開催。

 数々の不祥事にも足を引っ張られた感があり、とにかく複雑な感情がしきりです。メダルラッシュは確かに素晴らしいけれど、今も医療現場で働く人たちの苦労はどうしてくれるんでしょう。
 と、愚痴ばかり言いたくなってしまいます。ずっと前から楽しみにしていたオリンピックなのに、こうも開催を祝福できない自分が悲しい……。

 しかし。それでもなお。

 と、思わせてくれるところが人間のすごさなのかもしれません。だって、限界までチャレンジする選手たちの頑張りは本物じゃないですか。
 まさに人生を賭けてきた。その壮絶さは画面からも伝わってくるものです。スポーツの持つドラマは圧巻です。

 というわけで、今回はスポーツの世界を描いた小説について。
 名作はいろいろあるでしょうが、私が好きなのがこれ。池井戸潤さんの『陸王』です。

 私は一人の作家さんをずっと追うような読み方をあまりしないのですが、池井戸さんは特別です。ほとんど全てを読んでいて、しかも全部好き。自分でもかなりの池井戸ファンだと思います(笑)。

 ご存知の方も多いでしょうが、池井戸作品って時代劇風の勧善懲悪、ドラマティックな逆転劇が多いんです。これがいい。もうカタルシスですよ。
 普段は抑圧されている弱者が、努力の末にそれを跳ね返し、圧倒的な強者を見返す。そんなシーンが劇的で、いつもハンカチで目頭を押さえながら読んでいます。

 あんなのは水戸黄門じゃないかって?

 そうです。本当にそう。でも、その単純さは分かっていても、胸が一杯になるんですよ。私のルサンチマンの証拠なのでしょうけど(笑)。
 池井戸作品にはこのどんでん返しを不自然に思わせないだけの説得力があります。それは細部までよく練られているから。そして大団円の結末は、頑張る人が報われる社会であって欲しいという、みんなの心の声の代弁でもあります。

 池井戸作品は半沢直樹に代表される銀行物、下町ロケットに代表される町工場物がよく知られますが(どっちも素晴らしいです。改めて記事にしたいです)、『陸王』はどちらの要素も含む、ちょっと特別な位置づけの作品。
 業績の悪い零細企業が銀行に融資を断られ、絶対絶命……という池井戸作品に「おなじみのフレーズ」が出てくる一方で、挫折したアスリートがもう一度夢に向かって走り出すという、スポ根ものの爽やかさと組み合わされています。そこが新鮮なのです。
 アスリートを支える側の一般人を中心に、個人の抱える葛藤と、それを乗り越えるまでの努力の軌跡を丁寧に追っています。普通の人々を描いているところが、自然に感情移入できる理由なのではないでしょうか。

 主人公は、行田の小さな老舗足袋メーカー「こはぜ屋」の社長。
 この古風な社名もいいですね。着物を着る人にとっては常識である「こはぜ」の単語も(足袋の合わせ目の留め具のことです)、着ない人にはまったく通じません。
 そんなところからも、主人公はとにかく「古い」業界の人だということが伝わってきます。社長でありながら泥臭くて、冷徹な経営判断や何かにはほど遠い。でもだからこそ助けてくれる人が何度も現れます。

 物語は逆境に次ぐ逆境で描かれます。
 縮小するばかりの着物業界にあって、こはぜ屋の業績は悪く、社長の宮沢は事態の打開を迫られます。こはぜ屋は職人用の地下足袋など、独自の強みも持っているので、それを生かすべく、スポーツシューズへの参入を決めますが……。

 新規事業ですから、当然数々の難関が待ち受けています。宮沢は試作品を売り込もうと有名陸上部を抱える食品メーカーに行きますが、実績もない無名の会社ではほとんど相手にされません。
 憧れの茂木選手だって、今は故障中。記録を出さねばならないプレッシャーとの戦いがありますし、シューズを取り換えるという大きな選択は、安易にできるものではありません。

 意地悪なライバルの出現も、お決まりのパターン。ここまでやるかと思うほど、茂木選手はライバル選手にいじめられますし、それはシューフィッターの村野もしかり。懸命に頑張る人ほど、冷たい仕打ちを受けます。
 でもやっぱり、こはぜ屋の逆境が一番のスペクタクル。
 私が宮沢社長だったら心臓が持たない、と思うような危機がこはぜ屋に何度も訪れます。
 でも、そのたびに誰かの手が差し伸べられて、ギリギリの所で持ちこたえます。小さな「倍返し」がいっぱい仕込まれています。

 そうやってちょっとずつ業界に斬り込んでいくこはぜ屋ですが、やがて行く手に、最大の敵がたちはだかります。それは有無を言わせぬ世界的スポーツメーカー、アトランティス……。

 本当に、何でこんなにワンパターンなのに、予定調和なのに、面白いんでしょうね? 途中で本を閉じられないぐらい、ぐいぐいと引き込まれます。

 登場人物の一人一人が大きな葛藤と戦いますが、私が特に惹かれたのは、飯山という名の中年男性。破産後、荒れた生活をし、ほとんど人生を捨てていた彼ですが、宮沢のお陰でこはぜ屋の技術顧問となり、新しい足袋を生み出すチームの一員になっていきます。失敗した人も再生できるというメッセージに他なりません。

 宮沢の息子の大地は、就活がうまくいかずに苦労をし、仕方なく実家の家業を手伝うのですが、この大地を励ますのも飯山だったりする。この二人のやり取りも素晴らしいので、ちょっと抜粋。


「本当のプライドってのは、看板でも肩書きでもない。自分の仕事に対して抱くもんなんだ…(中略)…どれだけ自分と、自分の仕事に責任と価値を見出せるかさ」
「オレにもそんな仕事、見つかるかな」
 すると飯山は不思議そうな顔を向けてこう言った。
「いま、やってるんじゃないのか」
 虚を突かれ、飯山の顔をまじまじと見る。
 言葉が出なかった。
 あまりにも見当違いのことを言われたからではない。そうかもしれないと思ったからである。


 この飯山の説教臭いセリフ。普通なら「おいおい、お前が言うか」となりそうですが、ここでは前後関係があるから、そうはならないんですね。むしろグッとくる。仕事で失敗したことのある人が言うからこそ、本物の重みがあるのです。

 そうやって、みんなの思いを積み重ねて完成したシューズ「陸王」。
 スポーツ選手としての再出発を決める茂木はもちろん、彼を応援する一人一人の姿にも涙が出ます。
 どん底の時に支えてくれた人がいるからこその栄光。ランナーは一人で走るものじゃないと実感させてくれます。マラソンという競技を選んでいることもポイントですね。人生の苦しさとどうしても重なります。そしてどんなに苦しくとも、ゴールまで走り切ろうと思えます。

「人生の賭けには、それなりの覚悟が必要なんだよ。そして勝つために全力を尽くす。愚痴を言わず人のせいにせず、できることはすべてやる。そして結果は真摯に受け止める」
「全力で頑張ってる奴が、すべての賭けに負けることはない」
 心に残るセリフが、いくつも出てきます。

 テレビドラマは未視聴なんですが、あちらも素晴らしい出来栄えだったらしいですね。たぶん選手としての茂木くんを、もっと描いていたんじゃないかな?
 スルーしたことを後悔しています(笑)。見たという方、感想を教えて下さい!

 幸いなことに、オリンピックのマラソンはこれから。
 この本のお陰で、きっと私、選手の足元に目が行くと思う。支えた人の人生にまで思いが広がると思う。メダルはもちろん素晴らしいけれど、そこまで頑張ってひた走ってきたその人生が金メダルなのですから。

 それにしても、行田市は文学に恵まれていますね。『のぼうの城』(これも素晴らしい作品。歴史小説の時に記事にします)だけでなく、この『陸王』もあるなんて。それだけの歴史を持つがゆえなんでしょうが、ほんと羨ましいなと思います。
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