第30話 腐らずコツコツ…『高瀬庄左衛門御留書』

文字数 2,540文字

 端正な武家物時代小説、というと、それだけで一ジャンルを形成しているんじゃないかと思うほどいろいろあります。
 前回『蝉しぐれ』について書かせて頂いたのですが、やっぱり藤沢周平の存在は大きいということなんでしょうか、影響を受けたと思われる作品っていっぱいあるんですよね。

 今回はその系譜の中で、比較的最近読んだ物を一つ取り上げてみます。直木賞ノミネート作品です。
(※以下、ネタバレを含みます)

 砂原浩太朗『高瀬庄左衛門御留書(おとどめがき)

 架空の藩「神山藩」を舞台にした、まさに端正な武家物時代小説。
 主人公は高瀬庄左衛門といい、(こおり)方に勤める五十歳の下級藩士です。昨年、家付きの妻を亡くしていますが、物語の序盤でさらに一人息子、啓一郎を転落事故で亡くしてしまいます。
 もちろん大変なショック。生活は苦しいままだし、残された自分は老いるばかりです。

 なのに、傷ついた庄左衛門はさらに孤独へと自分を追い込んでいきます。
 まず長年仕えてくれた家来に暇を出してしまいます。息子の死に際して責任の一端があると感じたからですが、せっかく気心の知れた主従だったのに……と、ここは主人公を止めたくなるシーン。

 さらに庄左衛門は息子の妻、志穂も実家に帰してしまいます(昔は子供がいなければ、嫁は実家に帰ることが多かったのですが)。
 彼女自身は帰りたくない、ここに置いてくれと庄左衛門に頼みます。しかも志穂は、冷たかった啓一郎よりも、どうも舅である庄左衛門に心を寄せている様子。だけど庄左衛門も分かっているからこそ、彼女の将来を思ってそうするのです。

 一人暮らしになった庄左衛門。
 ここまで、ひたすら寂しいばかりの展開です。

 しかし、ここから意外な形で主人公のパワーが復活していきます。

 個人の力の及ばない、藩の上層部の権力争い。神山藩を揺るがす事態です。不思議なことに、庄左衛門の身の周りで起きる小さな出来事は、いずれもそこにつながってくるのです。
 そう、息子の事故死でさえも。
 主人公に思いがけない運命が降りかかり、戦わざるを得なくなります。そうであるからこそ、物語が躍動感に満ちていくのです。

 ところで息子、啓一郎が神経質で尖った性格になったのには理由がありました。
 亡き妻が息子に過剰な期待をかけた過去が語られますが、それは庄左衛門も同じこと。大秀才の息子を持てば、どんな親も自慢に思ってしまうものです。
 しかし啓一郎は藩校の首席争いに負け、江戸への遊学、そして帰国して藩校の助教になるという夢を断たれてしまいました。

 自尊心の高い若者が、どれほど傷ついたかは想像に難くありません。彼は父親と同じ郡方の役目に就いたものの、夢のない貧しい暮らしにいつも苛立ち、妻に迎えた志穂にもつらく当たりました。そしてついに郷村回りの際、崖から転落して死んでしまったのです。

 そして今。
 まるで独りぼっちになった庄左衛門の痛みをえぐるように、目付の家の次男坊、弦之助(つるのすけ)が表れます。
 弦之助は志穂の親族が巻き込まれた事件に関わる形で登場するのですが、何と彼は、かつて啓一郎と争って主席を勝ち取った当の相手でした。庄左衛門は、この若者のせいで息子を失ったのです。

 最初は弦之助に対して複雑な思いを拭えず、冷たくあしらう庄左衛門。でもやがて一緒に藩内の抗争に立ち向かうこととなり、二人の関係は少しずつ変わっていきます。

 傲慢に見えた弦之助ですが、人に言えないようなつらい過去がありました。
 庄左衛門がそれを理解したこともあり、弦之助は心を開いて行きます。彼は遠慮もなく、高瀬家に遊びに来るようになり、庄左衛門との間にまるで本当の親子のような、不思議な交情が芽生えて……。

 この物語の骨子は他にもいろいろ。多過ぎるだけに「要素」が絞り切れていないとも感じます。正直、描写の仕方もずいぶん粗削り。
 それでも「いいな」と思えたのが、こうした一つ一つの心の動きでした。じんと心に沁みるパーツがあちこちに散りばめられているのです。
 形式的には時代小説ですが、取り上げられているのは家族の崩壊と再生ですから、現代的なテーマと言ってもいいと思います。

 魅力的なパーツは他にもあります。
 かつて剣術道場のお嬢さんにあこがれ、仲間と争った青春時代。
 友達に勝ちを譲り、お嬢さんへの想いを諦めたのは庄左衛門にとってほろ苦い思い出となっています。だけど互いに老いた今、墓所でそのお嬢さんと再会するのです。

 どこまでも紳士的に振舞う庄左衛門。今なお美しさをとどめるお嬢さんからは、ふわっとモーションをかけられます。でも彼は他の人生があったとは思わないのです。反語的ではありますが、その覚悟は読んでいて胸に刺さります。

 艶っぽい要素はもう一つあって、それは何より実家に帰した志穂に関するもの。
 彼女はまだ幼い弟を連れて、絵のうまい庄左衛門に稽古を付けてもらいに来ます。庄左衛門も彼女を家に上げるのは危険だと知っているので、どこまでも他人行儀に接するのですが……
 庄左衛門の命が危うくなる事件を経て、この関係ががらっと変わります。息を呑むような展開です。

 この手の時代小説は、自然の描写が美しいことが多いのですが、この作品も例外ではありません。特に「鳥」が出てくる一文が多いように感じました。
 志穂が水墨画の画題に加えたら良いと進言する「つばめ」に始まり、めじろ、うぐいす、やまがら、ひよどり、よしきり……。
 梢に止まっているものもあれば、泣き声だけが余韻を残す描写もあります。

 ラスト近く、弦之助が自分の進む道を決めた瞬間にも、若者を応援するかのように一羽の山鳥が飛び立っていきます。鳥の姿は表紙絵にもありますが、この作品では鳥の存在が人の命の象徴であるようにも感じました。

御留書(おとどめがき)」とは、この作品では年貢高を見積もるための報告書のこと。硬い感じもしますが、主人公の性格によく合っています。しかも決して甘やかではない、「大人」なラストが訪れますから、それにふさわしいタイトルなのかもしれません。

 ほろ苦い人生であっても、腐らずコツコツ、整然と生きる一人の武士。戦うべき時は毅然と戦います。
 その美しい生きざまを見せてもらえるので、読後感は最高に爽やかです。
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