第29話 清冽なる大傑作『蝉しぐれ』

文字数 3,895文字

「藤沢周平の世界を彷彿とさせる」。

 と、先日書いて下さった方がいました。拙作に頂いたコメントの中でのことです。
 もちろんそんなのはお世辞であって、とてもとても、自分がこの大巨匠と比較されるようなレベルじゃないことは分かっています。

 それでもうれしかったこと!
 だって少なくとも、その方は私が目指している境地を分かってくれたわけじゃないですか。分かってもらえるということほど、うれしいものはありません。
 最近ではむやみに「共感」を追わない作品もあるようだけど、人と分かり合えるというのは小説に親しむ最大の醍醐味だと思う。このモヤモヤした気持ちを的確に表してくれる一文に出会いたくて、自分の気持ちを誰かに分かって欲しくて、みんな小説を読むんですよ(笑)。

 で、私は藤沢周平の端正で切ない世界観が圧倒的に好き。

 このサイトの皆さんは、執筆の動機になった特定の小説作品がおありだと思います。何らかの意味合いで強烈に刺激を受け、「自分も書いてみたい」と思わせてくれた何か。一冊、二冊は必ずあるのではないでしょうか。

 私の場合、一つに絞れと言われたらこの作品。藤沢周平の『蝉しぐれ』です。
 その昔、激しく感動し、時代小説というジャンルにのめり込むきっかけになった作品なのです。

 『蝉しぐれ』は、時代小説界では金字塔ともされる大人気作品。プロ作家さんを含め、多くの人が「人生で最も感動した小説」に挙げているほどです。すでに優れた書評もたくさん書かれていて、今さら私が何を言ったところで目新しいものにはなりません。またそれが理由で書かないつもりでいました。

 だけど上記のコメントを読んだ時、もう『蝉しぐれ』の世界が脳裏にぱあっと広がって、当時の深い感動が蘇って、胸がいっぱいになったんですよねえ。
 なので、やっぱり書くことにしました(笑)。
 
 念のため書き添えますと、時代小説の世界には「一平二太郎」という言葉があって、それぞれ藤沢周平、池波正太郎、司馬遼太郎を指します。作風をざっくり言うと「切なさ」、「粋」、「重厚」といった感じ。まったく違う傾向なのに、それぞれ大人気なんです。時代小説を書いて投稿する人は皆、この三巨匠のいずれかの系統に属する、なんて言い方をされることもあります。たぶん読み手も同じではないでしょうか。

 そして私を含め、女性の時代小説ファンに限って言うと、ほとんどが「一平」、つまり藤沢周平派かもしれません。しみじみと心に染み入る情感があって、男性主人公であっても女性と同じ肌感覚で描かれているのです。つまり、圧倒的に共感しやすい。ここは「小説」というジャンルである以上、大切なポイントではないでしょうか。

 さて、その藤沢周平が書いた『蝉しぐれ』とは、どんな物語かというと……
 油蝉がミンミンと鳴く、清流と木立に囲まれた、江戸時代の武家の少年を主人公にした青春小説です。
海坂(うなさか)藩」という庄内地方の架空の藩を舞台にしていますが、これは藤沢周平ファンにはお馴染みの設定。『蝉しぐれ』はそんな「海坂藩もの」の一つなのです。

 主人公の牧文四郎(まきぶんしろう)は、十代半ばの多感な少年です。他家に養子入りした身で(昔は子供のいない家に、跡継ぎとして男の子がもらわれていくことが多かった)、親と血のつながりはなし。だから文四郎は遠慮がちで大人びているところがありますが、控え目ながら家族の情はちゃんと芽生えています。

 冒頭から、下級藩士の慎ましい生活がリアルかつ美しく描かれます。真面目で堅実な養父母に引き取られた文四郎は、裕福ではないけれど安定した生活を送っています。藩校に通い、剣術道場に通い、隣の家に住む幼馴染の女の子がちょっと気になる。そんな彼の周囲に広がるのは、美しい田園風景。
 この辺からもう、情感たっぷりで引き込まれます。

 だけどあるとき事件が起こります。
 文四郎の養父が藩内の抗争に巻き込まれ、無実にも関わらず切腹させられてしまうのです。

 それまで平和に暮らしていた文四郎と養母は、一転して罪人の家族となります。家禄は激減、ボロ家に住まわされ、さらには世間から冷たい目で見られる、むごい仕打ちが待っています。
 今で言う中学生の少年に塗炭の苦労が強いられるわけですが、この作品では暗いシーンも一筋の爽やかさをもって描かれるのが特徴です。

 たとえば友達のこと。辛い時こそ寄り添ってくれるのが本当の友達というものです。文四郎には逸平という親友がいますが、世間がどんなに文四郎たちにつらく当たろうと、逸平は変わらぬ友情を寄せてくれます。そこがまず大きな救いです。

 そしてもう一人、江戸へ遊学に出た世之助も大切な友達。こちらは秀才タイプです。
 この作品はキャラクターの設定も秀逸で、文四郎がいかにも「勇者」であるのに対し、逸平はおとぼけ癒し系、世之助はインテリという感じ。三人の少年は、それぞれ現実の問題と戦いながら、一人前の藩士として成長していきます。

 日本の時代小説版の、ビルドゥングスロマンと言ったら良いのでしょうか。少年のみずみずしい心情があますところなく描かれ、その成長の過程では多くの葛藤と直面します。
 文四郎の養父を含め、何人もの無実の人々を死に追いやった藩の抗争は、この三人の心も深く傷つけました。だけど大人になった三人は力を合わせ、ついにその黒幕と対決していくことになるのです。

 文四郎は剣士として腕を磨くので、『蝉しぐれ』は剣豪小説の傑作に挙げられることもあります。事実、「秘剣村雨」などの必殺技が登場するシーンなどは、昭和中期ごろの古い小説を彷彿とさせます。

 だけど多くの人は、『蝉しぐれ』を恋愛小説と捉えているはず。
 私自身、ずっと切ないラブストーリーだと思っていて、今回読み返して、恋愛要素は全体のごく一部だと気付きました。そのぐらい「果たせなかった恋」の印象が強いのです。

 幼馴染の「ふく」と文四郎が心を通わせつつもすれ違い、別々の人生を歩んでいくところ。思いがけぬ事件で二人が再会を果たし、文四郎が彼女を命がけで守るところ。抑えつけていた恋心が、ふとした拍子にあふれ出てしまうところ。
 もうこれを書いているだけで胸がしめつけられるほどです。これらの名場面では、悲しいけれど、心が洗われます。「切なさ」とは何なのか、これらの描写が教えてくれるような気がします。

 そしてこれも再読で気づいたことなんですが、この作品に特に奇をてらった何かが出てくることはありません。意外なほど普通の構成、普通の文章です。

 なぜこれが名作なのか、いろいろ考えました。この作品から影響を受けた別の作品が多く世に出ていて、今となっては一つのエポックメイキングだったと捉えるべきなのかな、とか。私自身、あまりにこの作品に感動したせいで、記憶の中で巨塔のイメージを持ってしまっていたのかな、とか。
 いやでも、違う。やっぱりここには生きた感動があります。途中でやめられないような吸引力があります。

 その力の源泉は何でしょう?
 改めて『蝉しぐれ』の文章を読むと、とにかくリアルであることを感じます。「ごく普通」の描写ではあるけれど、いちいち的確だから、現代の私たちにとってもリアル。ああ、こういうことってあるよな、と感じさせる内容になっているのです。体温が同じなのです。その感覚がずっと続くから、この先どうなるのかを知っていても、目を離せません。

 そしてそのリアルは、人間らしい感情を表す時に最も発揮されています。
 一部を引用してみます。藩の上層部は残酷にも、文四郎の養父に切腹を命じます。死を前にした養父と、文四郎が最後の短い対面を許された後のワンシーン。
 文四郎は心配して様子を見に来た親友の逸平に対し、どんな対面だったのかを語り出します。ずっと涙をこらえていた文四郎ですが、この時初めて自分の本心に気づくのです。

「言いたいのはそんなことではなかったと思ったとき、文四郎の胸に、不意に父に言いたかった言葉が溢れて来た。
 ここまで育ててくれて、ありがとうと言うべきだったのだ。母よりも父が好きだったと、言えば良かったのだ。あなたを尊敬していた、とどうして率直に言えなかったのだろう。そして父に言われるまでもなく、母のことは心配いらないと自分から言うべきだったのだ。父はおれを、十六にしては未熟だと思わなかっただろうか。」

 この一生懸命さが、端正な世界を生み出していると思いませんか? 主人公が簡単に泣かないからこそ、読者が泣かされるのです。その悲しみが胸に刺さるのです。

 描写というのは説明的な文章からいかに離れるか、にかかっているのかもしれません。ある作家さんは、「円」を伝えるのに〇を描いて見せるのが説明で、まわりを全部黒く塗りつぶして「これは円だ」と感じさせるのが描写だと言っていました。
 確かに文四郎の悲しみを伝えるのに、藤沢周平は「悲しい」という言葉を使っていないんですよねえ。安っぽい「お涙頂戴」にならず、格調高い作品に仕上げるためには、この「黒く塗りつぶす」作業ができなくてはならないのかもしれません。

 小説初心者がやらねばならないとされる「模写」ですが、そういえば私の場合はこれが藤沢周平でした。短編だったり、あるいはシリーズ物の一部分だったりと、とにかく藤沢作品を手帳に書き写すところから始め、だんだん他の作家さんでもやるようになりました。
 でも技術的にまだまだ。黒く塗りつぶす技、もっと磨かなくてはなりません。
 初心に立ち返って、ではないですが、もう一度藤沢作品から学ぼうと思った次第です。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み