第28話 長徳の変
文字数 877文字
長徳2年(996年)、またも大変なことが起こった。ことは、女性がらみの嫉妬によるけんかから亡き長兄道隆一家とその妻だった高階家の人々への左遷へとつながり、道隆の中の関白家が没落していく。やはり、兄道隆の嫡子伊周は軽々しい人物で、帝をお支えするのにふさわしくなかったのだ。
故太政大臣藤原為光殿には美しい娘が数多いらっしゃり、伊周は三の君のもとに通っていたらしい。(ちなみに、二の君は、花山院の出家の原因となった故女御様である。)出家の身でありながら花山法王が四の君に通いだしたところ、伊周は三の君のもとに通っていると思い込み、それならと身を引くなど思いもせず、弟の隆家に相談したのだという。隆家は、なんと法皇様の一行を襲い、弓を射かけさせるという蛮行に及び、その矢が法皇様の袖を射抜いたのだ。
法皇は、帝と同じ権限をあたえられていらっしゃる。古ならば、死罪に値する蛮行だ。それなのに、隆家は定子様のところに逃れかくまわれている。帝は、怒りをあらわにされ、ただ、早く追い出すようにと命じられる。検非違使は帝の命に従い、定子様の御在所の戸を破り、天井や床をはがし、定子様を車にお乗せして連れ出してしまった。いくらなんでも、定子様にはお気の毒なことであった。さすがの隆家も、これに耐えられず、出てきて捕らえられ、出雲の権守として遠く出雲の地へ送られていったということだ。
しかし、その後病気だと手紙を送ってきたので、かわいい甥のこと、配慮してやるように帝に申し上げた。(じつは、伊周より隆家のほうが頼りになる甥であった。)伊周は、大宰権師、高階家の兄は伊豆権守、弟は淡路権守など、たくさんの者共が左遷という名の配流となった。
一条帝にとっては、花山院は自分に帝の位を譲ってくださった大恩あるお方である。いくら定子様のご兄弟とはいえ、厳しい措置になるのは、当然だ。この事件のさなか、定子様は自ら御自分の髪を切っておしまいになり、俗世を捨てられた形となる。ご懐妊中の出来事で、お子に大事があっては、と心配申し上げたが。これで、定子様は、後ろ盾を失ってしまわれた。
故太政大臣藤原為光殿には美しい娘が数多いらっしゃり、伊周は三の君のもとに通っていたらしい。(ちなみに、二の君は、花山院の出家の原因となった故女御様である。)出家の身でありながら花山法王が四の君に通いだしたところ、伊周は三の君のもとに通っていると思い込み、それならと身を引くなど思いもせず、弟の隆家に相談したのだという。隆家は、なんと法皇様の一行を襲い、弓を射かけさせるという蛮行に及び、その矢が法皇様の袖を射抜いたのだ。
法皇は、帝と同じ権限をあたえられていらっしゃる。古ならば、死罪に値する蛮行だ。それなのに、隆家は定子様のところに逃れかくまわれている。帝は、怒りをあらわにされ、ただ、早く追い出すようにと命じられる。検非違使は帝の命に従い、定子様の御在所の戸を破り、天井や床をはがし、定子様を車にお乗せして連れ出してしまった。いくらなんでも、定子様にはお気の毒なことであった。さすがの隆家も、これに耐えられず、出てきて捕らえられ、出雲の権守として遠く出雲の地へ送られていったということだ。
しかし、その後病気だと手紙を送ってきたので、かわいい甥のこと、配慮してやるように帝に申し上げた。(じつは、伊周より隆家のほうが頼りになる甥であった。)伊周は、大宰権師、高階家の兄は伊豆権守、弟は淡路権守など、たくさんの者共が左遷という名の配流となった。
一条帝にとっては、花山院は自分に帝の位を譲ってくださった大恩あるお方である。いくら定子様のご兄弟とはいえ、厳しい措置になるのは、当然だ。この事件のさなか、定子様は自ら御自分の髪を切っておしまいになり、俗世を捨てられた形となる。ご懐妊中の出来事で、お子に大事があっては、と心配申し上げたが。これで、定子様は、後ろ盾を失ってしまわれた。