3章10話 誉れあれ【善】

文字数 3,119文字

 褒められたかった。
 初めはただ褒められたかったんだ。
 頑張ったね、偉いねって言われたかった。

 きっと私は生まれつき、自分に自信が持てない。
 鍵を閉めたか不安で、すぐ家に戻ったりする。

 おかしいよね、盗むものなんてないのに。
 貧乏なくせして無駄に自意識が高いよ。

 母はいつも疲れていた。
 仕事から帰るなり、寝てばかりいる。
 何しても無反応ゆえ、瞳に映る私はいない。

 何でも、望まず生まれてきたんだってさ。
 好きな人には捨てられ、家族すら縁を切られたらしい。
 
 どうしようもないけど、これ以上迷惑はかけたくなかった。
 母は私を嫌おうが、私は母が大好きだ。好かれていたい。

 ちょっとでも気が引けるように、私は努力した。
 着々と成果は出始め、保護者の間で噂にもなった。

「イリスちゃんはすごいですね、お母さんいい教育していますよ」

「ほんとほんと、うちの子にも見習わせたいわ」

 勉強は苦しい。覚えても覚えてもキリがなく、大海みたいだ。
 前に進むほど忘れてもいくから、溺れていく感覚さえある。

 それでも筆圧でたわむノートが目に残る結晶となった。
 もっと見て欲しい、褒めて貰いたい想いが私を泳がせる。

 ――神童

 誰が火付け役となったか、そう呼称された。
 何を大げさなと呆れたけど、嬉しいは嬉しい。
 大きな転機が訪れたのはその翌年になる。

「イリス、こっちに来なさい」

 学校から帰った私に、珍しく母のお声がかかった。
 リビングで正座になり、手招きで呼ばれている。

「お母さんね、再婚するの」

 私が向かう間もなく、母がいった。
 険しい横顔は何だか緊張しているみたい。

「良かったね、おめでとうお母さん」

 あれこれ考え出す前から、明快な回答を告げる。
 ちくりと胸が痛むのは、半分流れる父の血だろうか。
 わからない、わからないけど母を一人にしたお前が悪い。

「ありがとう、あなたは本当に良い子ね」

 母が私を引き寄せ、抱きしめながら頬を合わせる。
 久方ぶりの温もりに思わず身体が反応できない。
 私は恐る恐る手を伸ばし、母の背中を撫でた。

※ ※ ※

 ――イリス・アーベル、それが私の新たな名だ。
 正しく生まれ変わるように、日常はひっくり返る。

 古くさいアパートは高塀に囲まれた豪勢な御屋敷に。
 綺麗な服で着飾り、専属コックの料理に舌鼓をうつ。

 義父は何度も特集を組まれるほど有名な科学者だった。
 人工知能にまつわる分野で今最もノーベル賞に近いらしい。

 義父には連れ子がいた。私より六つも年上の女子大生だ。
 透き通った肌に、目鼻立ちの整った顔つきの美人さん。

 お人形のように長いストレートで、枝毛はまるでない。
 足が悪いのか車椅子に腰かけており、儚げな印象がある。
 彼女が口を開き、本性丸出しで動き始めるまでは。

「いっちゃんー!」

 一言でいうと犬だった、尻尾をぶんぶん振り回す犬。
 車椅子を走らせては、忠犬のようにまとわりつく。

「いっちゃん、いっちゃん!」

 やれお風呂は一緒、寝るのも一緒、トイレでさえついてくる。
 私が一人の時間を手にするのは机に向かっている時だけだ。

 もしかしたら義姉も勘づいていたかも知れない。
 義父が母と再婚したのは私の学力が狙いなのだと。

 アーベル家は世の人誰もが知る有名な科学者一家だ。
 一千年も前の時代から数多もの発明を生み出してきた。

『世界は一人の天才と九十九人の馬鹿に支えられている』

 あるアーベル家の格言は時代を越え、未だに残されている。
 当時は非難轟々であったが、翌年の新規理論で黙らせた。

『傲慢ではない、血の宿命とは一種の枷であり誇りなのだ』

 事実、呪いなのだろう。たまに義父は取り憑かれたようになる。
 対して義姉は賢くなかった。辛うじて平均点は取れるレベルだ。

 義父からすれば面白くないのか、よく怒られていた。
 居づらさを感じる私の横で、義姉だけがへらへら笑う。

「でへへ、さーせんさーせん」
 
 私は知っている、学力はやる気が全てだと。
 続ける根気とめげない心がなければならない。
 いくら輝ける才能があろうと磨かなければ腐るだけ。

「全く、しょうがないやつだ」

 義父も見切りをつけているらしく、諦めがみえる。
 私はアーベルの責務を果たす上での保険なのだろう。
 一言二言であっさりと切り上げ、義父が立ち去っていく。

「いっちゃん~慰めて~」

 義姉はすぐに身を乗りだして、車椅子から抱きついた。
 激しい頬ずりをされ、ブレザーがしわくちゃになる。

「今日は一緒に寝てよ~」

「はいはい」

 ――愛嬌を振り回らなければ生きていけない人間。
 心のどこかでそう見下し、割り切って過ごした。
 義姉の代わりに私が何とかすべきだと思った。

 だから、半年後の夜中に目が覚めたのは多分運命だ。
 喉でも乾いていたのか、導かれるように起きた。
 ちょっと肌寒くて、義姉の姿がないと気づく。

「お姉ちゃん?」

 義姉は足が悪い。何となく不安になり、彼女を探した。
 すると、隣の部屋から微かな明かりと物音が漏れている。
 何気なく覗き込んだ途端、衝撃で一気に眠気が吹っ飛んだ。

「くそ……こうじゃないわね」

 見たこともない真剣な顔つきで、義姉が勉強している。
 赤縁の眼鏡をつけ、前のめりで机に齧りついている。
 山積みの参考書を眺めては、一心不乱に書いていた。

 ――パタン

 私は静かに扉を閉め、その場を後にした。
 見てはいけないものを目にした気分だ。

 布団に入っても全く寝れず、ぼんやりと考える。
 義姉の足が悪いのは一体何が原因なのだろうって。
 根拠も何もないけれど、漠然とした直感が口をつく。

「――勉学に集中するために自分で折った?」

 瞬間、私の部屋のドアが開いて義姉が現れる。
 何事もなかったかのように普通に布団に入った。
 きっと今日だけではない、彼女にとっての日常だ。

 全く気づかず、馬鹿にしていた事実が罪悪感になる。
 私は寝返りで背を向けながら、静かに鼻を啜った。

※ ※ ※

 日常は変わらない。
 義姉の成績はパッとせず、義父に怒られた。
 曖昧に笑っていたが、絶対に悔しがっている。

 私と一緒に寝た後、抜け出す時間が早くなった。
 帰ってくる時間は段々と遅く、伸びていった。

 奔放に生きる母は勿論、義父も気づいていなそうだ。
 私だけが義姉を気にかけ、こっそりと差し入れをした。

 中学生の私では大学生の彼女に勉強なんて教えられない。
 歯痒かった、側にいるだけで何もできず――私は無力。

 義姉は大学で『アーベル家の外れ』だと称された。
 記者が義父を取材する時でさえ、義姉は居ない扱い。
 人を義務を果たせない人間にただひたすら冷たかった。

「いっちゃん、一緒に寝よ」

 悪気があるとかないとか、嘆いても本質は違う。
 今も昔も価値を示さなければ追い出されるだけだ。
 私も勉強しなければ一人で、見向きもされなかった。
 
「ねぇ」

 いつものように寝たふりすると、頬をつつかれた。
 薄目ながら、義姉の喜色満面な笑みがみえる。

「ドリンク置いてくれたのいっちゃんでしょ?」

 ビクッと寝息が止まりかけるも、瞼は開かない。
 それを認めることは義姉の沽券に関わってしまう。

「ありがとう。私、いっちゃんが妹でよかった」

 義姉が私の頭をひと撫でし、額にキスを残す。
 翌朝、義姉は自分の部屋で首をくくって逝った。
 
 彼女の勉強机には一つの論文が書き上げられていた。
 今までの理論にない、目から鱗の新生宇宙理論だ。

 数々の分野に今後応用されていくだろうと評された。
 アーベルの名に恥じぬほど、世界を進歩させたといえる。

 ただ一点、義姉の論文は著者が間違っていた。
 彼女は自身の名でなく、『()()()()()()()()()()()()のだ。
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