1章01話 ペンギンフライト

文字数 2,957文字

 ――人は飛べない、地を歩く生き物だ。

 物心つく頃からずっと、そう言われ続けてきた。
 ありえない、鳥類にだけ許された行為だって。

 翼もない人間が空を飛べるわけがないだろうと。
 もしかしたらこの中にも同意見の人がいるかもしれない。

 でも、本当にそうなのだろうか。
 過去にガリレオ・ガリレオは地球が平面だと語る時代に相反してみせた。

 当時は非常識だって非難された言葉も、今や常識となりえる。
 百人が百人、さも当然のように「地球は丸い」と答えるに違いない。

 つまり何が言いたいのかといえば――俺は違う。
 何が正しくて何が間違っているかは自分で決める。
 だから今日も俺は一人、あの場所で空を目指すのだ。

「また、来てしまったか」

 俺の地域には海崖がある。町外れにある急傾斜の海岸だ。
 赤土の斜面は五十メートルを越え、手つかずの自然がある。
 当然落ちればひとたまりもなく、自殺志願者しか近づかない。
 
 そんな場所を俺は『フライトスポット』と呼んでいる。
 ひとえに飛ぶと言っても、その手法は千差万別だ。

 飛行機、グライダー、ウィングスーツと挙げればキリがない。 
 そのどれもが空に切望した人々に生み出された奇跡である。

 中でも俺は助走をつけて飛び跳ね、両手をバタつかせながら飛んだ。
 飛行機か何かではない、俺自身が空を目指してこそ意味がある。

「飛べる」

 言い聞かせながら呟いて、深呼吸を繰り返す。
 肺いっぱいに広がるのは、仄かな磯の香りと石臭さ。
 高所を前にした恐怖心が薄まり、覚悟は決まっていく。

「飛べる」

 軽くストレッチをしながら、下半身を沈み込ませる。
 クラスメイトが部活や恋愛に現を抜かす中、空に注力した。
 分析に研究を重ね、腹筋から背筋、地を蹴り飛ばす脚力を鍛えた。

「飛べる!」

 あの日々は決して滑稽なんかじゃない。
 恐れは、迷いは、既に吹き飛んだ。
 後はただ――飛び上がるだけ。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」

 追い風に背中を撫でられた途端、一気に駆け出した。
 獣のような雄叫びを上げ、勢いよく足を動かした。

 視界はぐんぐん横に伸びていき、空だけが映る。
 俺は崖先を踏み抜いて、大空高くへ飛び上がった。

※ ※ ※
 
「いっつ~……」

 結論からいうと失敗した、墜落したともいう。
 海面に全身を打ちつけ、青あざができている。

 学校は遅刻ぎりぎりだし、前髪も乾いていない。
 水滴を袖口で拭うと、クラスメイトが近づいてきた。
 正面に腰かけるのをみて、どうせ小言だろうと悟る。

「ソラ、お前も懲りないな。またダイブしていたのかよ」

「ダイブじゃない、飛んでいたんだ」

「嘘つけ、落下しただけだろうが」

 案の定の発言にすかさず反論したが、あえなく撃沈した。
 そのものズバリな指摘だけど、心情的に認めたくない。

「ま、良いんだけどさ。無茶はすんなよ、ほどほどにな」

 クラスメイトが呆れ気味に鼻を鳴らし、自分の席に戻っていく。
 注意されるうちが華というか、俺の説得は諦められているらしい。

「ほどほど程度じゃ、空を超えるなんて無理だろ」

 こっそり言い返して、バッグからノートを取りだす。
 タイトルに大きく『フライト日誌』と書かれたノートだ。
 最新ページにまで捲り、今朝のフライトが失敗した原因を書き込む。

『想像以上の飛行距離に気取られ、うまく腕が振るえなかった』

 これが原因、平常心さえ保てていればもっと高く飛べたはず。
 うんうんと独りでに頷きつつ、次のフライトに向けた空想をする。
 しかし空気の読めぬ始業ベルに、意識は現実に引き戻されていった。

※ ※ ※

 授業が終わり、まっすぐ家に帰った。
 靴を脱ぎ捨て、上がり込んで明かりを灯す。
 リビングに向かいながら、虚空に呼びかけた。
 
「ただいま」

 これは一種の儀式で習慣だ。
 おかえりは返ってこない。

 母が亡くなってから、一人でいる機会が増えた。
 父はパイロットだ。仕事柄、家をよく空ける。

 いや、仮にいたとしても困った顔をされるだけか。
 あの一件以来、まともに口も利けていないのだから。
 些細なやり取りでも、家政婦さんを通すのがその証拠。
 
「ふぅ……」

 クローゼットを開け、よそ行きの服装に着替える。
 無地のポロシャツとジーパン、上からパーカーを羽織る。

 袖口まで通せば、テレビ台の写真立てと目が合った。
 ブロンドの髪を押さえながら、柔らかく微笑む母がいる。

『大丈夫、お母さんはいつまでもお星さまになってソラを見守っているから』

 母の遺言は今でも覚えている。
 思い出さない時はない。

「――今日も近くまで行くから」

 俺は母の写真をひと撫でし、リビングを後にした。
 今度こそ絶対に飛んでみせるという確固たる決意で。

※ ※ ※

 海崖につく頃には空が黒く染まっていた。
 夏終わりの九月上旬だが、夜の海は寒すぎる。

 眼下のそれは生物みたいにうねっていた。
 水しぶきとともに巨大な波音を届けてくる。

 怖い。人並みには泳げるが、得意なわけじゃないんだ。
 打ちどころが悪ければ、そのまま溺死だってありえる。
 いや、待て……そうじゃないだろう。

「なんで飛ぶ前から失敗のことを考えているんだ」

 これではあいつらと同じではないか。
 俺が信じなければ叶うものも叶えられない。
 
「よし」

 一歩ずつ後退し、助走をつけて星々を見据える。
 今か今かと待ち、風が止んだ瞬間に駆けだした。
 崖先に迫るほど気分は高揚を経て、口角が上がる。

 ――今の俺は間違いなく鳥だ。
 飛んだという感覚もなく、気がついたら空にいた。
 雲の切れ間から見え隠れする月を目指して、浮上する。

「あっ」

 ふと、夜空の中で一際目立つ星を見つけた。
 吸い込まれるように視線が外せなくなる。
 心音は今にも胸を突き破っていく勢いだ。

『大丈夫、お母さんはいつまでもお星さまになってソラを見守っているから』

「……あの星がそうなのか」

 これ以上にないくらいの高ぶりを感じる。
 左肩が下がるほど、目いっぱいに手を伸ばした。

「届け!」

 切羽詰まった金切り声だ、自分が出したとは思えない。
 身体だけではなく、心までがふわふわと浮いた感覚。

「届け」

 ひとしれず溢れた涙が頬を伝って離陸する。
 視界は淡く滲んでいくが、構わず”母”を見続けた。

「届……」

 奇跡なんて起こらない。現実は非情だった。
 足は上がり、自惚れた頭が真っ逆さまに落ちる。

 死んだ人間に会うことなどできないと無情に窘められた。
 信じられず、何とかなると縋った希望が雫と化して離れゆく。

「会いたいよ、母さん」

 無愛想な父とは違い、母はいつでも笑っていた。
 前触れもなく引っつき、頬ずりをするほどに愛情表現が多い。
 恥ずかしくて、嫌がる素振りをしたけど本当は嬉しかったんだ。

 あの温かみは二度と味わえない。
 俺を庇ったまま、冷たくなる母の感触がする。
 母の葬儀で父に吐き捨てた一言が脳内で反響する。

『お前が死ねばよかったのに』

 意識が戻り、目を覚ます頃には手遅れとなっていた。
 面前には巨大な岩礁がある。細長く尖りきった岩礁だ。
 それが急に動きだして、覗き込むように目を合わせる。

 ドンッ!!

 たちまち、果てしれぬ衝撃に見舞われた。
 強烈な倦怠感が駆け抜け、身体は海に落ちる。
 溢れでる後悔は白く濁り、無情な空に溶け込んだ。
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