第33話 恋愛から情熱を奪うもの

文字数 5,335文字

 ほんとうの恋愛って、いったいどんな恋愛なのだろうか。私は、あの四国の巡礼者よろしく、この九ヵ月間、数こそ少ないが、いろんな女の方々に会って来た。
 しかしその結果は、ほんとうの恋愛を求める私にとって、いささか心淋しいものであったということを告白しなければならない。
 そしてやがて私のこのまずしい恋愛論も終わるのだが、おそらく私のこの遍歴の滑稽さとむなしさを証明するだけとなるであろうと思う。といって、ほんとうにむなしく、ほんとうに滑稽であったかということになると、そうではないと言わざるをえない。
 私にとって現代における恋愛の形がはっきりして来たように思われるからである。

 では、いったい、どんな恋愛が、ほんとうの恋愛として、私の心を満たすことができるのか。私は、性急にそれを語り出したい衝動を感ずる。そして私は、そうしたいと思うのだ。
 これからのお会いする二、三人の方々のことを語りながら、それを示したいと思うのだ。
 で、今度は、池山雅子(仮名)さんの場合を話して行こう。池山雅子さんは、今年二十五、六の、小柄なひとだ。心は夢中で駈け出そうとする時、身体の方が弱々しく崩れるというような、いらだたしさを秘めているような感じがするひとである。
 あるいは私と同じような興奮症なのかもしれない。私は、彼女と会っていて、どこか自分に似ているところがあるなと感じたのはそのようなところのあるせいだろう。

 雅子さんは、いまの化学工業会社につとめはじめて十二年になる。戦争中、女学校の何年生かでその会社の事務員に徴用されてから、敗戦後もずっとその会社に居ついてしまったのである。
 だからその会社の女性群の最古参で冗談めかしていえば、ボスなのだ。いまは、進歩的な陣営に属している彼女は、ボスになるまいと懸命につとめているのだが、どうも周囲からその役割を押しつけられがちなようだ。学校の方は、敗戦のときに退学してしまった。

 雅子さんも、敗戦のときの、あの精神的な虚脱を知っているひとだ。おそらくこのことは、雅子さんが自覚しているにしろ、していないにしろ、彼女の精神的な風土にとって決定的だったと思われる。彼女のその後の生き方に、いろんな影響を与えていることが感じられるからだ。
 彼女が、一時、キリスト教の教会の門をくぐったのも、おかしなことに組合運動に献身的になることができたのさえも、彼女のそのような精神のあり方がひしひしと感じられるのである。

 今までに雅子さんは、かなりの数の恋愛を経験している。だが、最初は不幸な恋愛ではじまっていたのだ。
 それは同じ職場の社員とのそれだった。彼も、あの敗戦後間もない、あらゆる虚脱とあらゆる可能性が混乱している中で、自分の道を求めようとして、さかんに本を読んでいた。
 そして雅子さんも、彼と一緒にそれらの本を読み、たがいに考え合い、たがいに議論し合った。幸福だった。
 だがしかし、その幸福は、ほんとうの幸福ではなかったのである。彼に、婚約した女のひとがいたからだ。そして彼がそのことを悩みはじめたとき、あの古来からうんざりするほど繰り返され、その苦しみの深さにもうんざりせずにはおられない三角関係の中に巻き込まれてしまったのである。

 三角関係の解決は、数学的に明瞭である。誰かひとりを、その関係から取り去ればいいからだ。
 だが、三角関係のもっているあのいらだたしさは、誰がそのひとりを取り去るのか、誰がその取り去られるひとりになるのか、決定できないという点にある。
 三人の誰も悪者になることもできず、といって良い者にもなることができない、無限地獄の中にのたうつより仕様がないのだ。

 彼は、雅子さんに愛しているといった。だがその舌の根が乾かないうちに、その許嫁(いいなずけ)にも、愛しているといっているのだ。これは雅子さんの知らないし、知りたくもない事実なのである。
 その関西にいる許嫁の女が上京した時に会った。チェーホフがその「手帖」の中でいみじくもいっているように、このような場合、おたがいの心については黙ってしまうより仕方がないのである。
 そしておたがいは、相手に対して良い人間であろうとして振る舞う。そしておたがいの間に友情のようなものさえ感じられて来るのだ。
 もちろんそれはあくまで友情のようなものであって、ほんとうの友情ではない。しかしそういうものでもない限り、おたがいにやり切れないのである。

 そのようなとき、雅子さんは、彼から婚約を解消するについての困難さを聞いたのである。もちろんそれは初めてではなく、今までに彼から何度も繰り返し聞いて来たところの話なのだ。
 しかしそのとき、その自分の知り抜いているその話が、今までにない絶望へ彼女を追い込んだのだった。
 雅子さんは、彼と別れると都電に乗って自分の家のある三田の方へ帰って来た。だが、とても家へ帰る気にならなかった。死にたかったからだ。彼女は、あてもなく街を歩いた。それから慶応の図書館へ入った。
 何のためにこんな所へ? そう考えたとき、どうしてか彼女の眼から涙がほとばしったのである。そして彼女は、泣きながら半日もその図書館から出ることができなかったのだった。

「あの許嫁のひとは、あの彼氏なしには生きて行かれないひとだったからよ」と雅子さんは、彼となぜ別れたかについて人々に語っている。「今でも、わたし、その彼女とも彼とも友情をもっておつきあいしているわ」
 もちろん雅子さんのいうとおりだと思う。だがどんな美しい名目があるにしろ、彼女が失恋したのだということも、厳粛な事実なのであった。
 敗戦後、あの帝国主義を信じていた自分を失った時と同じような、あの「自分は何のために生きているんだろう?」という問いが、雅子さんの心の中に蘇ってきたのも、その頃である。
 彼女は、教会へ行ったり、ニーチェやキルケゴール(両者はある意味で実存主義の元祖である)を読んだりした。
 しかしこの問いが人間の心に起こる時は、そのひとに、たとえ感情的なものにしろ、すでにその答がある時なのだ。
 それは、この人生は、究極には何の意味もなく、生きるに値するものは何もないという感情である。そしてこの感情こそは、牡蠣(かき)のように強固に雅子さんの心の裏側にへばり付いているものなのだ。
 そしてこの牡蠣は、おそらく一生、雅子さんから悪魔のように離れないだろうと断言できる。
 雅子さんがその存在を忘れている時も、それはしっかりと、しかしのんびりと、こびり付いているにちがいないのだ。

 それは、会社から疲れ果てて帰ってくる途上や、多労なだけで何の収穫もない会議や会合の中で退屈した時や、夜家へ帰って流しで自分の貧しい弁当箱を洗っている時などに、ふいに襲いかかってくるのである。
 そのとき彼女は、ふと、
「自分は何のために生きているんだろう?」
 と呟いている自分に気づいて、何ともいえない気持ちに陥ってしまうのだ。
 そのとき彼女の心は、痛切な声で叫び出すのだ。愛したい、誰かを、気ちがいのように愛したいと叫び出さずにはおれないのである。
 職場の女のひとたちは、恋愛はしたいが結婚するというまでの、勇気は持てないので、曖昧な憂鬱とどこか空虚な希望との間に揺れて、男のひとたちと消極的にしか付き合えないひとが多い。
 しかも現在の職場では、あの敗戦後のあのような自由は消えてきて、職場での恋愛も、上司からの有形無形の圧迫を受けるようになってきているので、このような傾向はいっそう助長されている。
 雅子さんは、それらの仲間の様子に反撥を感じて、時にはわざと積極的に男のひとたちとつき合う。
 しかし雅子さんは、自分がそうできるのは、単に反撥だけでなく、内心のひそやかな空虚のせいなのだということも感じているのである。

 このような男とのつき合いから、当然のように恋愛のようなものが起きる。接吻を交わす時さえある。だが、あの最初の恋愛の時のように夢中にはなれず、相手と自分との間に空虚な風を感じることが多いのだ。
 そしてこの空虚が、さらに新しい恋愛へ彼女を走らせるというふうなのである。職場の女のひとの消極性に、自分は反撥しているのだと自分を納得させながらだ。
 最近は、それらの恋愛の中でも、深くまで入ることができたという相手があった。文学青年で、絶えず本を読んでいる青年だった。
 しかしその彼の、病気のせいか、この世の中のことに静観的なのが、彼女に飽き足らなかった。そして深く入ることができたように思えるにもかかわらず、いつも誰に対しても感ずるあの飽き足りなさを、種類こそ違え、その彼に感じている自分が淋しい気がするのだった。

 雅子さんも「ほんとう」に誰かを愛したいと思う。しかし、もはや自分は誰も「ほんとう」には愛することができなくなっているのではないかという不安も、感ぜずにはおられないのである。
 雅子さんが、組合運動に夢中になろうとするのは、その時なのだ。彼女は、唯物弁証法、唯物弁証法という言葉を、しきりに振り回す。だが私には、それが彼女の、助けてくれ、という悲鳴に聞こえる。なぜなら彼女の考え方は、少しも唯物弁証法的でないからであった。

 しかし雅子さんの恋愛に感じるあの空虚さこそは、多くのひとの恋愛の中にも潜んでいるものなのだ。私たちは、ほんとうに誰かを愛そうとする時にぶつかる壁こそは、恋愛から情熱を奪ってしまうあの空虚さなのである。
 私は、ある女を愛し、そしてほんとうに愛そうとして、
「ぼくは、君をいつまでも愛しているよ、いつまでも!」
 といった時、突然ぞっとするような悪魔の笑い声を聞いたような思いがして、彼女を抱いていた胸が凍ってしまったことを思い出さずにはおられないのである。

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 僕は、この椎名さんの文を読んで、今べつの時間に読んでいるキルケゴールの「あれかこれか、第二部(上)の、Bの書類収録、Aへの書簡」(白水社)を思い出さずにはいられない。
 Bの書類を筆者(キルケゴール)が収録する、という形式の文章で、そのAへの書簡とは、紛れもなくキルケゴール自身への手紙なのだ。そこで、延々と「初恋と結婚」について語り続けている。
 BはAに、「結婚は自分を鍛える、良い機会である」とし、その結婚が自己にもたらすメリットを、心理分析するように述べ続ける。「初恋と同じように、それ以上に、きみは結婚することで、愛することをおぼえていく」というふうに。
 そしてAがなぜ結婚しないのかということも、心理分析風に滔々と述べ続ける。
 キルケゴール自身、自分から熱狂的に好きになった恋人と、婚約までこぎつけながら、自分勝手に破棄するという、謎の事件を起こしている。自己分析のような文で、ここまで自分について、その心理について書けるのか、と感嘆、半ばあきれながら読んでいる。

 この椎名さんとキルケゴール、二人の文を読んでいる者として、「本質」を見ている、見ようとする、虚構に埋もれることのできないサガのようなものを痛切に感じる。
 デンマークの哲人は「42歳までしか生きれない」とした(家系からそう思い込んだ)ことから、また裕福なお坊ちゃんであったことから、思う存分、探求の経路を書き続けられたろうけれど、椎名さんは真逆の生い立ちから始まって、生活のために書かなければならなかった。
 その創作ノートは相当緻密で、野間宏だったか、親しい作家が椎名さんの家でそれを目にし、「これは立派な作品だ、出版社に掛け合ってくる」みたいなことを言い出した。椎名さんは、これは自分の頭の中のことを書いたノートだから、出版なんかとんでもない、恥ずかしい、と、ぜんぶ庭で焼いてしまったらしい。
 おそらく、そのノートは思索、作品へのテーマとしたいことが入念に書かれた、思索の道のようなものだったろうと僕は想像する。多分にキルケゴール的な…、いや、想像はやめよう。椎名さんは、それを「世に出す」のは、違うと判断したのだから。

「何のために生きているのだろう?」
 すべてが、ここに行き着くように思う。恋愛は、その発露の一つで、でも心に、かなり重要なものを芽生えさせるタネだと思う。
 その恋愛、そして「ずっと一緒にいる」ことを前提とするような結婚。これについて、真剣に考えなくなった人が増えたとしたら、空虚(心の中?)を見つめず、虚構のようなものばかりを見つめ、それを基軸にしか考えが回せなくなったとしたら。
 人生みたいなもの、そのものが、そのようなものになっていくんだろうと思う。そんな人生が蔓延れば、この世の中めいたものも、そのようになっていくんだろうと思う。

「この牡蠣は、おそらく一生、雅子さんから悪魔のように離れないだろうと断言できる」と椎名さんは絶望的なことを書かれている。
「しかしこの問いが人間の心に起こる時は、そのひとに、たとえ感情的なものにしろ、すでにその答がある時なのだ」とも書かれている。
 絶望的なことを書かれたとしても、生きて行く勇気というか、見つめ続ける勇気が、椎名さんを読むことで、自分に植え付けられる気がするのは、どうしてだろう…。
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