第10話(椎名さんとキルケゴール)

文字数 1,196文字

 僕がキルケゴール(「世界の名著」中央公論社)と出会ったのが小、中学生時分だった。兄の本棚にあって、どうしたわけか心に入ってきた。パスカルも気になったけど、そして「パンセ」を読んだが途中で放棄。アフォリズムを少し長めにしたような文体は読み易かったが、さっぱり分からなかった。
 キルケゴールも、もちろん分からない。「分かったような気になるだけだな」というのは分かる。だが、「キルケゴール著作集」(白水社)を1~4まで買って、以来40年くらい、数多の引っ越しとともに、ずっとキルケゴールは僕と一緒にいるのだった。
 そしていまだにこの著作集を読破できていない。何度もチャレンジはするものの、一体なにがいいたいのだろう、というのが目について、読み進める意欲がなくなってしまう。
 … だが、こう書いていて、ふと思い当たる。
 キルケゴールは、べつに何を訴えようとして書いていたのではないのではないか。
 単なる読み物として、べつに何を期待するわけでもなく、こちらも淡々と読めばいいのではないか?

 だが、平凡社の世界の思想家シリーズ・キルケゴールや、「世界の名著」の解説を読むにつけ、やはりとんでもない人だったんだな、と確認すると、どうしても何かを探すように読もうとしてしまう。
 が、きっとそれらの識者によるキルケゴール分析は、かれらがかってに始めたことで、たぶんキルケゴールはそんなこと知ったこっちゃなかったのだ。死後100年以上経ってドイツで研究がはじまり、日本に入ってきたのはその後だろう。
 そしてキルケゴールは、自分が「研究」されることを、おそれおののいていたのではなかったか。
 膨大といわれる日記も、事実をそのまま書いているわけでなく、事実は暗示的に書き、そこから受けた自分の感慨を書いているのが多いはずだ。
 だからキルケゴールの「実体」は、いつまでたっても謎のままなのだ。

 椎名さんは、その点、わかりやすい。八百屋の丁稚奉公、西洋軒のコック見習い、「順調に不良少年の道をたどった」頃のことや、共産党員として検挙された時の話、その後の特高の執拗な「見守り」の話は、他のエッセイに何回も出てきて僕は読んだ。
 そして椎名さんは、あくまでも生きる根拠を、「考えること」── に求めた。
「地底での散歩」というエッセイ(絶版)などでは、その考える、思索を続ける、思索のみで完結するものが多かったが、何をいっているのか僕にはやはり分からなかった。
 が、その思索を続けたのが椎名さんという人そのものであって、厳然たる一個の精神であったと僕は思う。
 この「愛について」というエッセイと同じような椎名さんの本には、「たいせつな人への贈り物に」と、帯だかどこだかにあった。
 この本を贈られた人は、愛について、いろいろ考えることになるんだろうな。でも、大切な人にだからこそ、贈りたい。その人が幸せであるために… と思う。
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