第43話 (7)愛をよろこぶために
文字数 1,452文字
ホントウに愛し、ホントウに愛されたいと思うことは、人間の自然な欲望である。私はその欲望をどんなものからも奪われることを欲しない。
だが、愛することはできても、ホントウにはだれも愛することができないという事実、だから愛されてもホントウにはだれからも愛されることができない事実は、私のこの自然な欲望を裏切るように思われる。
だが、今の私には、その事実こそ、私のよろこびなのである。ふしぎにも思われるだろうが、そしてまたその事実に対してもはなはだ申し訳ないのであるが、まったく私にはそうなのだから仕方ないのである。
第一には、その事実は、私に、私のホントウに愛したいという欲望にとらわれないようにしてくれるからだ。私がだれかを愛しており、ホントウに愛したいと思っている自分を、あたたかい心をもって許してやるだけでなく、むしろすすんで、できるだけ多く、ホントウに愛し愛されたいと思うのだ。
なぜなら、そう思っている私は、自分のホントウに愛することができないという事実を知っているのだから、ホントウに愛したいと思えば思うほど、その自分がおかしく感じられ、しかもそのおかしい自分を自然な人間として愛してやることができるからだ。
第二には、そのホントウに愛することができないという事実は、ホントウに愛したいと思っている自分の希望の無意味を教えてくれるからである。無意味なものだから、私がホントウに愛そうとつとめればつとめるほど、遊びに似てくるのである。ひとりで石けりをして遊んでいる子どもを見たことがあるだろう。石けりはこの人生において何の役にも立たないものである。だが、面白いから子どもはひとりでも夢中になれるのではないか。だから私はよろこびをもって、できるだけ真剣に愛そうとつとめ、ホントウに愛そうとするのである。
だからまた、その遊びには、どんなことがあっても、ホントウに愛することができないのだという事実が必要なのであり、だからまた私の真剣さから、真剣さにともないがちな、あの歯を食いしばるような痙攣的なヒステリー状態から私を救ってくれるのである。
第三に、そのような私には、当然不安が避けがたいものとして襲ってくるのであるが、しかし私は、安心してホントウにだれかを愛そうと思い、そうすることができるのである。なぜなら、その不安も、ほんとうには自分の不安にすることができないということを知っているからである。前に述べたように、ホントウに愛することはできないということは、ホントウに不安になることができないということでもあるからだ。
第四には、その事実は、愛のなかにますます生き、さらに多く生かしてくれるのである。愛に、ホントウには愛することができないという区切りを、あたえてくれたからだ。
かぎりない愛だとかいう言葉の嘘に、もはや騙されることはない。どんなに水を無限の広野に満たそうとしても、水のとぼしさを嘆く嘆きが残るだけにちがいないからだ。だから愛に区切りがあることこそ、よろこぼう。そしてその区切りいっぱいに、私たちは、私たちの愛で満たそう。その区切りは、そのことが私たちにでき得るという約束のしるしなのだからである。
どんなことがあっても、死を愛の証言たらしめてはならない。それが私たちの反抗であるべきだ。また、どんなことがあっても、死を真理たらしめてはならない。それにこそ、私たちの最後の反抗であるべきなのである。
(「人間はホントウにだれかを愛することができるか」『指』昭和三十三年五月号~八月号)
だが、愛することはできても、ホントウにはだれも愛することができないという事実、だから愛されてもホントウにはだれからも愛されることができない事実は、私のこの自然な欲望を裏切るように思われる。
だが、今の私には、その事実こそ、私のよろこびなのである。ふしぎにも思われるだろうが、そしてまたその事実に対してもはなはだ申し訳ないのであるが、まったく私にはそうなのだから仕方ないのである。
第一には、その事実は、私に、私のホントウに愛したいという欲望にとらわれないようにしてくれるからだ。私がだれかを愛しており、ホントウに愛したいと思っている自分を、あたたかい心をもって許してやるだけでなく、むしろすすんで、できるだけ多く、ホントウに愛し愛されたいと思うのだ。
なぜなら、そう思っている私は、自分のホントウに愛することができないという事実を知っているのだから、ホントウに愛したいと思えば思うほど、その自分がおかしく感じられ、しかもそのおかしい自分を自然な人間として愛してやることができるからだ。
第二には、そのホントウに愛することができないという事実は、ホントウに愛したいと思っている自分の希望の無意味を教えてくれるからである。無意味なものだから、私がホントウに愛そうとつとめればつとめるほど、遊びに似てくるのである。ひとりで石けりをして遊んでいる子どもを見たことがあるだろう。石けりはこの人生において何の役にも立たないものである。だが、面白いから子どもはひとりでも夢中になれるのではないか。だから私はよろこびをもって、できるだけ真剣に愛そうとつとめ、ホントウに愛そうとするのである。
だからまた、その遊びには、どんなことがあっても、ホントウに愛することができないのだという事実が必要なのであり、だからまた私の真剣さから、真剣さにともないがちな、あの歯を食いしばるような痙攣的なヒステリー状態から私を救ってくれるのである。
第三に、そのような私には、当然不安が避けがたいものとして襲ってくるのであるが、しかし私は、安心してホントウにだれかを愛そうと思い、そうすることができるのである。なぜなら、その不安も、ほんとうには自分の不安にすることができないということを知っているからである。前に述べたように、ホントウに愛することはできないということは、ホントウに不安になることができないということでもあるからだ。
第四には、その事実は、愛のなかにますます生き、さらに多く生かしてくれるのである。愛に、ホントウには愛することができないという区切りを、あたえてくれたからだ。
かぎりない愛だとかいう言葉の嘘に、もはや騙されることはない。どんなに水を無限の広野に満たそうとしても、水のとぼしさを嘆く嘆きが残るだけにちがいないからだ。だから愛に区切りがあることこそ、よろこぼう。そしてその区切りいっぱいに、私たちは、私たちの愛で満たそう。その区切りは、そのことが私たちにでき得るという約束のしるしなのだからである。
どんなことがあっても、死を愛の証言たらしめてはならない。それが私たちの反抗であるべきだ。また、どんなことがあっても、死を真理たらしめてはならない。それにこそ、私たちの最後の反抗であるべきなのである。
(「人間はホントウにだれかを愛することができるか」『指』昭和三十三年五月号~八月号)